日本とスコットランドとの親睦を深めるNPO団体、「日本スコットランド協会」の会員になって22年になります。
同会のニューズレターの最新号にエッセーを寄稿しました。
この話はちょくちょく披露しておりますが……(^_-)-
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「な、なんや、これは!」
1986年、新聞記者(読売新聞大阪本社)をしていた32歳の時、スコッチのシングルモルト・ウイスキーを初めて口にした時、感動のあまり声を上げてしまった。
緑色の三角柱のボトルで知られるグレンフィディック。
それを機にぼくはシングルモルトの世界に浸っていき、そのうちウイスキーを生み出す蒸留所を見たくなった。
2年後の88年、勤続10年の休暇を利用してスコットランドへ飛んだ。
1週間の滞在中、グレンフィディック蒸留所を皮切りに各地の蒸留所を駆け足で巡ったが、ぼくの関心は次第にスコットランドそのものに移っていった。
英国(UK)に属していながら、イングランドとは違った空気が流れており、住人のイングランドへの対抗意識も相当なもの。
ウイスキーの銘柄にも英語と異なる言語(後でケルト語の一種ゲール語とわかった)がやたらと多い。
俄然、興味を覚えた。スコットランドへは学生時代に一度訪れているが、そのときは単にUKの一地方という認識しかなかった。
帰国後、さっそく日本スコットランド協会に入会。
同時にかの地の歴史を文献でひも解くと、500年ごろ、アイルランドから渡ってきたスコット人が建国の礎を築いたことがわかった。
そのスコット人がケルト人の一部族だというのだ。
「ケルト?」
初めて「ケルト」の名を目にしたぼくは何かしらロマンティックな響きを感じた。
その後、ケルトがヨーロッパの基層文化の1つであることを知るにつれ、既知の文化とはかなり異質で、どこか曖昧模糊としている、そんなふうに思えてきた。
こうして「ケルト熱」に冒されたぼくは、仕事の合間に活字を通してのみケルトに触れていたが、そのことに欲求不満が募ってきた。
なにせ新聞記者とあって、現場を踏まないと気がすまないから。
とはいえ会社員の身、長期間、海外に行けるはずがない。
ましてや多忙な記者。
まず無理。
ならば定年退職後に実行しようかとトーンダウンした矢先、円満に新聞社を退職できた。
95年、40歳の時。
人事異動の発令が契機となったが、独立して大好きな映画、ケルト、洋酒をテーマに執筆活動に励みたいと数年前から思っていた。
「人生、1度限り」
この言葉がぼくの背中を押した。
フリーになって3年後、何とか軌道に乗ってきたところで、「ケルト」紀行シリーズに着手した。
最初の地はぼくをケルトへ導いたスコットランドと決めていた。
しかし生来の天邪鬼なので、あまり知られていない西部のヘブリディーズ諸島への旅を敢行した。
その成果を『スコットランド「ケルト」紀行~ヘブリディーズ諸島を歩く』(彩流社)としてまとめた。
そのあと毎年夏にヨーロッパに点在するケルトの関連地を訪れ、10年間でシリーズ全10巻を完結させることができた。
しかし完結していなかった!
スコットランドの本土を外していたのである。
先住の民ピクト人のことがずっと気になっていたのに……。
そこで2010年夏、南端の聖地ウィッソーンから北上し、東海岸沿いに北端のサーゾーに至り、オークニー諸島とシェットランド諸島にまで足を伸ばした。
10年ぶり5度目となったスコットランド縦断の旅。
全てが新鮮に感じられた。
旅の収穫はシリーズ11巻目(何と中途半端な!)として上梓する予定だ。
ぼくの唯一の取り柄はフットワークの軽さ。
今回のスコットランド旅行でもそれを存分に生かし、20余日間にわたって臨機応変に取材ポイントを踏破していった。
事前の準備は必要だが、現地に行けばどうにかなる。
とことん見てきてやれ。
そんな記者魂と「好き」の力が旅の原動力になっているような気がする。
よく思う。
あのときグレンフィディックと出会わなかったら、今のぼくは絶対にないと。
人生に豊かな彩を与えてくれたウイスキー。
1杯の重みをズシリと実感している。
新聞記者から作家に~人生を変えた1杯のウイスキー
投稿日:2010年12月25日 更新日:
執筆者:admin