コルシカ鉄道で到着した西海岸のバスティアは非常に雰囲気のいい街でした。
人口は6万人弱です。
フェリーターミナルの周辺はアジャクシオよりも洗練されており、街全体の活気もこちらの方が勝っているような気がしました。
海に面した中央広場では子どもフェスティバルが開催され、大賑わい。
ジェノバの支配期に建てられた街並みが残っており、限りなくイタリアに近いです。
とりわけ旧港と城塞の界隈はイタリアの田舎町そのものといった感じ。
夕方、城塞内にあるバスティア博物館に入ると、特別展示『コルシカ人のアイデンティティーと移民』が催されてました。
すごく興味深かったです。
貧しさから逃れ、新たな人生をつかむために150年間に約25万人が島を離れ、移民としてフランス植民地のインドシナ、アフリカ、南米へ向かったそうです。
フランス国内では「辺境の民」と侮蔑されていたコルシカ人が、植民地では「フランス人」として認識されました。
現地の人たちにとっては、フランス語を話すコルシカ人は「フランス人」にしか見えず、彼らは一転、支配する側に就いたわけです。
コルシカ島にいたらとても考えられないことで、現地で名士になったコルシカ人が少なくなかったそうです。
インドシナでのゴムのプランテーション経営者にはコルシカ人が結構いたらしい。
よくよく考えると、大英帝国におけるスコットランド人やウェールズ人とよく似ていますね。
英国内では、イングランド人から見下されていた彼らが、長崎に造船所を作ったグラバー(スコットランド人)しかり、海外で大いに羽ばたいていましたから。
いわば、帝国主義の「先兵」……。
植民地が維持された第二次世界大戦まではよかった。
戦後はしかし、植民地が次々と独立し、コルシカ人はフランス国内やコルシカ島へ引き揚げました。
そうなると、もはや「フランス人」でいられなくなり、元の「コルシカ人」に戻らざるを得なくなったのです。
そうしたコルシカ人が後に反仏独立闘争に加担したともいわれています。
アイルランド、スコットランド、ウェールズ、ブルターニュ、ガリシア……、「ケルト」文化圏の国と地域も移民とは切っても切り離せません。
だから、この島のことが気になるのかもしれませんね。
現在、パリやマルセイユなどフランス国内の主要都市にはコルシカ人の共同体(コミュニティー)があるそうです。
そこで暮らすコルシカ人の中には完全にフランス人化した人もいますが、大半はとことんコルシカ人であることにこだわって生きているらしいです。
その意味で、沖縄の人とよく似ていますね。
フランス人とコルシカ人は風貌だけでは判別できませんが、喋るとすぐにわかるみたいです。
コルシカ訛りが出るらしい。
皇帝ナポレオンも終生、コルシカ訛りだったそうです。
何気に訪れた博物館でいろんなことを考えさせられました。
博物館を出てしばらくすると、いつしか夜の帳が下りていました。
宝石のような情景にうっとり~(^_-)-☆