武部好伸公式Blog/酒と映画と旅の日々

ケルト文化に魅せられ、世界中を旅するエッセイスト・作家、武部好伸。映画と音楽をこよなく愛する“酒好き”男の日記。

ノルマンディー海岸を訪れて~映画『史上最大の作戦』の地

投稿日:2011年9月13日 更新日:

10年間にわたる「ケルト」の旅の資料を整理していたら、フランス「ケルト」紀行の帰りに立ち寄ったノルマンディーの写真がいっぱい出てきました。
9年前、懐かしい。
ファイルにエッセーの原稿(2003年作成)が入っていました。
読み返すと、(自分で言うのも変ですが)なかなか充実した内容なので、写真を添えてブログでアップします。
長文です。
     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆
ノルマンジー(8)
北フランス・ノルマンディーの海岸は雲ひとつなく、澄みきった青空に覆われていた。
空がこんなにも青かったのかと、あらためて思い知らされるほど純粋なブルーだった。
その空の一片から真夏の陽光がさんさんと照りつけているものの、空気が乾燥していて汗ばむほど暑くはない。
いや、潮の匂いをはらませた涼風によって、ぼくは得もいわれぬ心地よさに浸っていた。
思いっきり空気を吸い込むと、その新鮮な味わいに頭がくらくらするくらいだった。
眼の前の砂浜はだだっぴろく、波打ち際まで優に80メートルほどある。
淡い黄土色の砂をすくってみると、思いのほか微細で指のあいだからサラサラと砂の粒子がこぼれていった。
左手のほうに遊泳エリアが設けられているが、海水が冷たいのか、ほんの数人しか泳いでいない。
ビーチでサッカーや砂遊びに興じる子どもたちの嬌声がときおり風に乗って聞こえてくるだけで、ずいぶん閑散としている。
空の色と見まがうほどの真っ青な海がやけにまぶしく映り、サングラスをかけないと直視できない。
どこをとっても眼前の情景は平和そのもの。
じっとしているだけで心が和んでくる。
 
ノルマンジー(9)
ぼくは毎年夏、アイルランド、スコットランド、ウェールズなどヨーロッパの西端に散らばる〈ケルト文化圏〉の国や地域への取材旅行をつづけている。
ヨーロッパに深く根ざすケルト文化の探求がぼくのライフワークのひとつで、その成果をささやかながら、拙著『ケルト紀行』シリーズ(全十巻を予定)にまとめている(*すでに達成しました!)。
2002年はフランス北西部のケルトの地、ブルターニュ地方を訪ねた。
丸1か月間の取材を終え、TGV(高速列車)にでも乗ってパリに直行するつもりだったが、根っからの酒好きとあって、「いい機会だから、本場ノルマンディーのカルヴァドス(リンゴのブランデー)を味わいたい」と妙な欲が出て、東どなりのノルマンディー地方に立ち寄ってきた。
そして中世の町バイユーからバスに揺られ、ノルマンディー海岸のほぼ真んなかに位置するアロマンシュ村にやって来たのである。
約930年前、ヴァイキングの末裔であるノルマンディー公ウィリアムがこの地から160キロ離れたイギリス本島にわたり、イングランドを征服した史実(ノルマン・コンクェスト)を思い出しながら、絵に描いたようにのどかな砂浜を村から眺めていた。
実は、先ほどから気になっていたのだが、方形をしたコンクリートの塊が砂浜にいくつも横たわっているのである。
どれも海藻や貝類がびっしりこびりついており、見るからに年代モノだ。
よくよく見ると、弾丸痕らしき穴も見受けられる。
沖に眼を転じると、おなじような物体が波間に浮かんでいた。
いったいなんなのだ。
ノルマンジー(5)
それらは第2次大戦のヨーロッパ戦線においてターニング・ポイントとなった連合軍のノルマンディー上陸作戦の残滓であった。
歴史的にも名高いその作戦は1944年6月6日未明にはじまった。
フランス語の「Debarquement en  Normandie」(ノルマンディー上陸)の最初の文字をとって、その日は「D―デイ」と呼ばれている。
艦艇4600隻、重爆撃機2500機、戦闘機7000機、兵員17万5000人を擁した、まさに「史上最大の作戦」だった。
上陸地点は5か所。アロマンシュ村の西側、アメリカ軍が上陸したオマハ海岸とユタ海岸、東側にあるイギリス・カナダ軍(一部ポーランド軍も)が制圧したゴールド海岸、ジュノー海岸、スウォード海岸。
いずれも連合軍が上陸地点につけた暗号名だ。
地元の人はフランス語の正式な海岸名を使っているが、外国人には暗号名のほうがわかりやすいので、いまなお英語の地名は健在である。
劣勢のドイツ軍はしかし、海岸で徹底抗戦し、連合軍に甚大な被害を与えた。
とりわけオマハ海岸に上陸したアメリカ軍は短時間のうちに約1000人の命が失われ、初日だけで連合軍の消耗人員が1万2000人(うち死亡2500人)にものぼった。
ノルマンジー(7)
(岬の向こうがオマハ海岸)
作戦がはじまった翌日、早くもイギリスから軍事物資や生活用品などを搬送するため、このアロマンシュ村の海岸に大規模な人工港が構築された。
ぼくの眼の前に横たわっているコンクリート塊はその残骸なのである。
人工港はアメリカ軍とイギリス軍によって2か所建造されたが、ここはイギリス軍専用の港だった。
「マルベリー」(MULBERRY)と呼ばれ、「フェニックス」(PHOENIX=不死鳥)と名づけられたコンクリートブロックが115個も使われ、防波堤の長さが8キロにも達したそうだ。
一番大きいものは長さ70メートル、幅15メートル、高さ20メートル、重さが7000トンもあったという。
それらをイギリスから牽引してきたというからすごい。
かつては血に染まった砂浜はいまやちょっとしたリゾート地と化し、もはや戦争ははるか遠い出来事のように思える。
けれども砂浜に連なるコンクリートブロックを見入っているうちに、戦闘シーンがぼくの脳裏によみがえってきた。
といっても、あくまでも映画の世界ではあるが……。
ノルマンディー上陸作戦といえば、やはりアメリカ映画『史上最大の作戦』(1962年)に尽きる。
ノルマンジー(10)
(ぼくが持っているパンフレットの表紙)
コーネリアス・ライアンの戦記『いちばん長い日』(THE LONGEST DAY)を映画化したもので、上陸作戦をセミ・ドキュメンタリー風に撮った戦争巨編(上映時間が2時間58分)だった。
ジョン・ウェイン、ロバート・ミッチャム、リチャード・バートン、クルト・ユルゲンス、ジャン=ルイ・バローといった、米、英、独、仏の人気俳優を集めたオールスター映画としても話題を呼んだ。
ハリウッド映画とあって、上陸シーンはてっきりカリフォルニアあたりの海岸で撮影されたとばかり思っていた。
ところが撮影は実際にノルマンディー海岸で行なわれていたのである。
「映画の基本はリアリズム」
それを地でいくように、大プロデューサーのダリル・F・ザナックが激戦から18年ぶりに上陸作戦を現地で再現させたのである。
ここでふと思う。映画が公開されてから今日までの期間(50年近い)よりも、上陸作戦から映画の撮影がおこなわれるまでのほうがはるかに短かったのだ。
どうもピンとこないが、『史上最大の作戦』は完全にクラシカルな映画と分類されてしかるべき作品のようである。
戦争映画に興味を持つ人以外、若い人はおそらく知らないだろう。
このあとバイユーに戻ってから、街角のとあるカフェでこの映画にエキストラ出演したというかくしゃくとしたおじいさんと出会った。
その店で働いていた英語の堪能な青年(多分、アルバイトの大学生)が、おじいさんの言葉を実にわかりやすい英語で訳してくれた。
それによると、だいたいこんなことを言っていた。 
「海岸は上陸作戦のときとおんなじ光景じゃった。まるで戦争の時代に舞い戻ったかのように。この付近の人はかなりエキストラで動員され、村人や兵士の役で出演していましたなぁ。わたしですか? 自転車に乗って海岸通りを通過する役でした。でも、銀幕には映っていなかった。ハハハ。とにかく撮影現場は大混乱でね。あんな多くのロケ隊を見たのは生まれてこの方はじめてじゃった」
このように映画『史上最大の作戦』は“現場主義”に徹し、壮大なスケールで描かれていたのだけれど、肝心の上陸シーンはさほどリアルではなかった。
上陸用舟艇、戦車、装甲車など“ハード”がやたらと目立った割には、死傷した将兵の姿が少なく、現実感に乏しかった。
所詮、娯楽映画、そこまで血を見せなくてもいいだろうと判断したのだろうか。
たしかにそのころ戦争映画に関しては、実録風の鮮烈な映像がはやっていたわけではなかったが……。
ところが、その36年後に製作されたスティーヴン・スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』(98年)を観て、ぼくは度肝を抜かれた。
冒頭がノルマンディーの上陸作戦だった。
アメリカ軍が上陸用舟艇から飛び下りた途端、待ち構えていたドイツ軍の銃弾の嵐に襲われる。
血肉が飛び散り、ばたばたと兵士が倒れる。
海中に転落した者にも容赦なく弾丸が降りそそぎ、身体を貫通していく。
あまりのリアルさにぼくは息をするのも忘れ、ただただ銀幕に見入っていた。
「ほんとうの戦争はこんな風だったんや」
衝撃を受けた。
これまでの戦争映画はみなウソっぱち。
甘い、甘い。
やはりとことん写実的に描かないと、戦争の実態や悲惨さを訴えることができない。
その映像を観ながら、ぼくはそんなことを考えていた。
蛇足だが、このシーンはノルマンディーではなく、アイルランドの東海岸で撮られ、連合軍とドイツ軍はすべてアイルランド人のエキストラ(一部、アイルランド軍も協力)だった。
映画を観たときはわからなかったのだけれど、ロケ地に選ばれた海岸は、眼の前のノルマンディー海岸とはかなり趣がことなっていた。
こちらの海岸はすごく奥行きがあるのだ。
その『プライベート・ライアン』の激烈なる上陸シーンを思い浮かべながら、ぼくはアロマンシュの海岸沿いにある上陸博物館(Musee  de  Debarquement)を訪ねた。
ノルマンジー(4)
ノルマンディー地方には上陸作戦に関連した博物館が点在している。
ざっと数えても20数館ある。そのなかで一番大きな博物館は、イギリス軍によって解放されたカーンの郊外にある平和記念博物館(Caen Memorial)だ。
ノルマンジー(11)
そこは上陸作戦のみならず、1918年から今日までの戦争の歴史を豊富な展示と映像で解説している、ヨーロッパでも屈指の戦争博物館である。
ノルマンジー(1)
(平和記念博物館に展示されているイギリス空軍のハリケーン戦闘機)
アロマンシュの上陸博物館の入り口には英、米、仏、カナダ、ポーランドなどかつての連合軍の国旗が翻っており、前の広場には小振りの高射砲が置かれてあった。
ノルマンジー(2)
ピカピカに光っているところを見ると、どうやら最近のもののようだ。
フランス軍のものか。
ひと昔前の体育館のような館内に入ると、かなり混み合っていた。
このあたり連合軍兵士の墓地がいくつもあり、海外から墓参に訪れる人があとを絶たない。
見学者のなかにもそういう人たちが随分多く見受けられた。
やはり鎮魂ムードのせいであろうか、館内は静寂がただよっており、一瞬、広島の原爆博物館にいるような錯覚に陥った。
ところが展示品を見てびっくり。
上陸作戦で使われた武器の数々、軍用車両などがこれみよがしに展示され、ドイツ軍を撃破した作戦が誇らしげに解説されてあったのだ。
ノルマンジー(3)
ノルマンジー(12)
ノルマンジー(13)
なんやこのにぎにぎしい雰囲気は……。
瞬時にぼくは白けてしまった。
いや、それ以上に憤りも覚えた。
鎮魂どころか、勝者のおごりすら感じられたからである。
まぁ、ここは勝利した上陸作戦をわかりやすく紹介する博物館なので、致し方ないと思うのだが、それでももう少し展示品や展示方法に工夫を凝らしてもらいたかった。
これじゃ、戦争の悲惨さや愚かさがちっとも伝わってこない。
見ようによっては、戦争(暴力)賛美にも受け止められかねない。
気分を害し、早々に退出しようとしたら、係員に薄暗い部屋へ誘導された。
そこは上映室で、ぼくが入室した直後、すぐに映写機が動いた。
銀幕に映し出されたのは、コンクリートブロックを使ってイギリス軍が人工港を建造する過程を追ったドキュメンタリー映画だった。
「わ~っ!」
冒頭の映像を眼にした瞬間、ぼくは思わず声を発してしまった。
横の青年も「ウッ……」とうなっている。
それほど長くはなかったが、従軍カメラマンが撮影した上陸時のすさまじい光景が映し出されたのだ。
実際の戦闘は、言葉で尽くせないほど強烈なものだった。
機関銃の弾が命中すると、いとも簡単に身体が砕け散ってしまうのだから。
浜辺のあちこちに肉片が飛び散っており、モノクロの映像はたちまち流血で黒っぽくなった。
戦闘がはじまった直後から、ほんとうにノルマンディーの海岸が血で染まっていたのである。
ぼくは原爆博物館で被爆者の写真をはじめて見たときとまったくおなじ気持ちに襲われた。
このあと訪れたカーンやバイユーの戦争博物館でもよく似た映像を眼にし、強烈に胸が痛くなった。
どこでもみな押し黙ったままじっとスクリーンを見つめていた。
ここでは勝者も敗者もないのだ。
悲惨な戦争の前では、だれもが弱い人間でしかありえない。
戦争体験者は実際に戦闘や空襲に遭遇してきたので、このようなむごたらしい光景をまぶたに焼きつけているかもしれないが、ぼくみたいな戦争を知らない世代には、理屈抜きに衝撃的だった。
もはや『プライベート・ライアン』の上陸シーンなんてぼくの頭から完全に吹き飛んでいた。
戦争はそんな生易しいものではないんだ。
とんでもない殺戮と暴力がそこでおこなわれているんだ。
これまで戦争映画を多々観てきたけれど、どんなにリアルに撮っても、現実の戦争をそのまま映し出すことは不可能だと思った。
それほどまでに戦争は映画では描き切れないほど大きすぎて、むごたらしいものなのだ。
たとえ描き切っても、そんなおぞましい映像をだれが観るというのだ。
正直言って、映画のなかで爆撃シーンや暴力シーンを観て、スカッとしたことがある。
ときにはカッコいいなと思ったりもした。でもあの映像を観て以来、たとえ娯楽作品でも、戦争を扱っているかぎり、そう容易に快感に溺れるべきではないと思うようになった。
博物館から出て、火照った身体を冷やそうとアロマンシュ村を一望できる丘にのぼった。
そのてっぺんにアメリカ製のシャーマン戦車が海に睨みをきかせていた。
ノルマンジー(6)
すこぶる展望がよく、眼を凝らすとイギリス本島まで見えそうな気がした。
右手には激戦地だったゴールド海岸の湾曲した浜辺がひろがっている。
圧倒的な軍事力を誇る連合軍の上陸を前にして、この丘に陣取っていたドイツ軍の将兵たちはどんな心境で海岸を眺めていたのだろう。
ふたたび戦車に眼を転じ、しげしげと砲身を見入っていると、白髪の背の高いおじいさんがつかつかと戦車に近寄ってきた。
雰囲気からしてイギリス人の観光客と見た。
ぼくと眼が合うと、その人はちょこんと会釈し、ぼそっと小声でつぶやいた。
「戦車に乗っていたんですよ」
案の定、イギリス人の英語だった。
上陸作戦に従軍した人なのだろう。
そう言うや、老人は戦車に向かって十字を切った。
どうしてそんな行為をしたのかはわからない。
戦友に対する鎮魂なのか……。
かつてサイパン島を訪れたとき、海岸に放置され、波に洗われて赤サビだらけになり、いまにも朽ちてしまいそうな旧日本軍の戦車に向かって、キュッと背筋を伸ばし敬礼していた日本人のお年寄りを見たことがある。
どこの国であれ、まだ戦争の終わっていない人がいっぱいいるんだ。
 
そんなことを考えていると、どういうわけか、『史上最大の作戦』の勇壮なテーマ曲がぼくの頭のなかで駆けめぐり、ついそのメロディーを口笛で奏でてしまった。
不謹慎と思ったが、もうあとの祭り。
反射的に老人がぼくのほうに顔を向けた。
なにか文句でも言われるのかな。
咄嗟に口笛を吹くのをやめ、おそるおそるおじいさんの顔色をうかがうと、べつに気にしなくてもいいよと言わんばかりに笑みを浮かべていた。
そしてあろうことか、一緒に口ずさんでくれたのだ。
あの映画をどう思っているのだろう。
ちょっぴり勇気を出して訊けばいいのに、なんだか話しかけるのがためらわれ、そのうち照れくさくなり、その場を離れた。
丘の端に立ったぼくは潮風をまともに受け、しばしたたずんだ。
いまや『史上最大の作戦』のテーマ曲は打ち消され、博物館で観たあの鮮烈な映像がまざまざと脳裏によみがえってきた。
気がつくと、沖縄やサイパンでしたように、知らず知らずのうち眼下にひろがる優美なノルマンディーの海岸に向かって合掌していた。
われに戻った途端、急にノドの渇きを覚えた。あヽ、無性にカルヴァドスが呑みたくなった……。
(この原稿は映画研究誌FB 18号 2003年冬号に掲載されたものです)

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プロフィール

プロフィール
武部好伸(タケベ・ヨシノブ)
1954年、大阪生まれ。大阪大学文学部美学科卒。元読売新聞大阪本社記者。映画、ケルト文化、洋酒をテーマに執筆活動に励む。日本ペンクラブ会員。関西大学非常勤講師。