大阪ストーリー(15)上町台地をゆく~ママチャリで北から南へ縦断~〈後編〉(2020年7月)
☆口縄坂から夕陽が丘へ
新型コロナウイルス禍が広まる前の3月上旬に敢行した「上町台地ママチャリ縦断ルポ」の後編です。
「いくたまさん」と親しまれている生國魂神社(大阪市天王寺区生玉町)で少し休憩してから、ふたたびペダルをこぎました。
谷町筋に出る手前の道を右折すると、「大阪市:歴史の散歩道」の四角いルート表示盤が路面にはめ込まれおり、それに従ってゆるりゆるりと南下。
すぐに風情のある坂が西側に伸びていました。
天王寺七坂の1つ、源聖寺坂です。
天王寺七坂とは、北の千日前通から南の国道25号線までの間、上町台地の西側斜面にある7つの坂道のこと。
北から、真言坂、源聖寺坂、口縄坂、愛染坂、清水(きよみず)坂、天神坂、逢坂(おうさか)。
一番南の逢坂は国道25号線になっています。
これらの中で一番よく知られているのは、何といっても口縄坂でしょう。
この坂は松屋町筋まで少し湾曲して伸びています。
長さが100メートルほど。幅が2メートルにも満たない。
石段が45段。下から眺めると、形が蛇にそっくりなことから、蛇を意味する古い大阪言葉の「くちなわ」と名づけられたそうです。
石畳が蛇腹に見えなくもありませんね。
両側に生い茂った樹々が大蛇の巣食う薮のようにも思われます。
坂の上には数人の素人カメラマンがいました。
ここは絶好の撮影地点です。
眼下の情景をファインダーでとらえると、ホンマに絵になりますね。
こんな情緒のある静寂な地が大阪のど真ん中にあるなんて……。
ぼくの横で、おばあさんが幼いお孫さんの手をつないで西の空を眺めてはりました。
「毎日、ここに来てますねん」
口縄坂が日常の中に溶け込んでいるのが、何となくうれしかったです。
すぐ南へ移動すると、大阪で屈指の夕陽スポットとして知られる家隆塚(かりゅうづか)。住居表示は天王寺区夕陽丘5丁目。
まん丸い夕陽をあしらった石碑にまず目が引きつけられます。
塚の木立の中に五輪塔や顕彰碑があり、なかなか趣がありますね。
『新古今和歌集』の撰者の1人で鎌倉初期の歌人、藤原家隆(1158~1237年)が晩年、この地にあった夕陽庵(せきようあん)という庵で、日々、日想観(にっそうかん)に務めていたといわれています。
日想観とは浄土信仰の1つで、西に沈む夕陽の丸い形を心に留める修行法です。
家隆が落陽に向かって合掌したまま黄泉の客人となったので、ここに塚が築かれたと伝えられています。
当時、そう遠くないところまで迫っていたであろう大阪湾に沈む夕陽はさぞかし素晴らしかったのでしょう。
だからこの辺りが夕陽丘と名づけられました。
美しい地名ですね。
現在、西方には林立するビルしか見えないけれど、それでも夕暮れ時には赤く染まった西空を拝むことができます。
近いうちにここを再訪し、心ゆくまで残照を堪能しようと思いました。
☆阪神タイガースの「守り神」&真田幸村戦死の地
家隆塚から「歴史の散歩道」に従って愛染堂勝鬘院へ。
大阪人から「あいぜんさん」と呼ばれ、夏祭りが最初に催されるところです。
ここはパスし、西に隣接する大江神社の鳥居の前にママチャリを停め、「夕陽岡」の石碑に一瞥し、境内奥に歩を進めると、狛犬ならぬ、2対の狛虎と対面しました。
「矢野監督、頑張れ!」
「気力培い、大きく羽ばたけ!」……。
こんな文言が書かれた木札が何本も立てられ、うしろの柵には応援メガホンがぶら下がっています。
そう、ここはプロ野球阪神タイガースのファンにとっての「聖地」なんです。
長い間、口を開けた「阿形(あぎょう)」の狛虎しかなかったのですが、星野阪神が18年ぶりに優勝した2003年、口を閉じた「吽形(うんぎょう)」の狛虎が置かれ、2対になりました。
トラキチのぼくが「守り神」の狛虎に手を合わせて優勝祈願をしていると、スリッパ履きのおばさんが近寄ってきて、声をかけてきました。
「心を込めて祈らなあきませんよ」
「はい、そうしてます」
「せやけど、なんぼ祈ってもなかなか優勝してくれへん」
「うーん、確かに」
今シーズンも厳しいかな……。
ちなみに、口縄坂、家隆塚、大江神社はOsaka Metro谷町線四天王寺前夕陽丘駅から徒歩圏内にあります。
さらにママチャリで南下。
四天王寺西門のある交差点から西へ伸びる逢坂(国道25号線)を下っていくと、「安居天満宮 真田幸村戦死の地」と大書された看板が目に飛び込んできました。
境内には、大きな石碑と幸村の座像。
その座像を目にした瞬間、思わず合掌してしまいました。
大坂夏の陣(1615年)で、徳川方を苦しめ抜いた豊臣方の名将、真田幸村がここで命を落としたといわれています。
享年、49。
このママチャリ紀行のスタート地点だった大阪(坂)城へ勇壮と入城してから7か月後、すぐ南側の茶臼山に本陣を敷いていた敵方の総大将、徳川家康の軍勢に挑みがかった直後のことです。
あゝ、幸村……。
「滅びの美学」を見事に体現した、ぼくの大好きな戦国武将です。
上町台地には幸村の体温が今なお宿っています。
☆天王寺公園から一路、住吉大社へ
安居天満宮をあとにし、一心寺から天王寺動物園東側の道路を経て、石段の下にママチャリを置き、えっちらおっちらと石段を上り切ると、そこは大阪市立美術館。
西方にそびえる通天閣の眺めが何とも素晴らしい!
高層建築物が建ち並ぶ昨今、103メートルという高さでは全く勝負になりませんが、それでも通天閣は紛れもなく大阪のラウンドマークです。
そう思わせる風格があります。
石段を下り、ママチャリに乗って坂道を上ったところが天王寺公園です。
芝地に設置された「OSAKA」の文字モニュメントの向こうに、日本一高いあべのハルカス(300メートル)が圧倒的な存在感で迫ってきます。
学生時代、今はなき野外音楽堂で開かれた『春一番コンサート』を聴きに来て、浮浪者や愛隣地区のおっちゃんらとカップ酒を手にして一緒に大合唱したのが懐かしいです。
ここは標高16メートル。だんだん下ってきています。
天王寺公園は大阪にとって記念すべき地です。
117年前の明治36(1903)年、この辺り一帯で第5回内国勧業博覧会が開催されました。
欧米からの出展もあり、実質的には日本初の万国博覧会でした。
その跡地がこの公園や動物園、新世界です。
今やこの歴史的な大イベントを知らない人が多く、風化してきているのが残念ですね。
すっかり垢抜けした天王寺公園から、阿倍野筋をさらに南へと向かいました。
この大通りも熊野街道です。
それを示す石碑を見ると、なぜかホッとします。
阿倍王子神社、万代池、帝塚山界隈をくねくねと寄り道しながら、気分よく走行していたら、目的地の住吉大社を通り過ぎてしまい、あろうことか大和川の岸辺に来ていました。
あわててUターンし、何とか住吉大社(すみよっさん)にゴールイン。
ここの標高が6メートルなので、大阪城よりも32メートル低いんですね。
住吉大社は航海の神、港の神として祀られた神社で、日本に数ある住吉神社の総本社です。
風格ある本殿は国宝に指定されています。
古代の遣隋使・遣唐使は、ここで航海の安全を祈願したあと、近くの住吉津(すみのえのつ)と呼ばれた港から出帆し、このママチャリ紀行の前編でふれた上町台地北部の難波津(なにわつ)へ、そこで物資を調達したのちに大陸へ向かっていたそうです。
このように古(いにしえ)の交易が上町台地の最北端と最南端がつながっていたとは興味深い。
正式には、「住吉反橋(そりはし)」という優美な太鼓橋に上ると、正月の初詣や大阪の夏祭りの最後を締める住吉祭(毎年7月31日、*今年はコロナ禍で開催中止)の賑わいが脳裏によぎってきました。
と同時に、上町台地って何と懐が深いんやとしみじみと実感。
何たって大阪の歴史と文化の揺籃の地ですからね。
わが心の上町台地……、ますます愛おしく思えてきました。
ホンマに実りあるママチャリ紀行と相成りました。
最後に参考情報として――。
大阪ガス エネルギー・文化研究所(CEL)では、文化・歴史・鉄道・商業・食など多角的に上町台地を見据えた情報紙『上町台地 今昔タイムズ』を年に2回、発行しています。
イラスト付きで情報量が満載です。*検索「上町台地今昔タイムズ」