大阪ストーリー(14) 上町台地をゆく~ママチャリで北から南へ縦断~〈前編〉(2020年5月)
☆「大阪の背骨」、上町台地
ママチャリで街中を巡るのが大好きです。
この〈大阪ストーリー〉でも、“愛車”のペダルをこいで、「渡船巡り」と「中之島横断」のエッセイを書きました。
その第3弾として、「大阪の背骨」といわれる上町台地の縦断にチャレンジ!
新型コロナウイルス感染拡大防止の緊急事態宣言が発令される1か月前の3月上旬に敢行しました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
上町台地は、市内のほぼ真ん中を南北に伸びています。
北は大阪城天守閣(大阪市中央区)から南は清水丘(住吉区)までの約12キロ。
行政的には、中央区、天王寺区、阿倍野区、住吉区の4つの区にまたがっています。
太古の縄文時代には、上町台地の西側まで大阪湾が迫り、東側には河内湖という内海が広がっていました。
つまり、にょきっと突き出た半島だったのです。
今では河内平野になっている河内湖の眺め、きっと穏やかな情景だったのでしょうね。
すごくロマンをかき立てられます。
亡き作家、司馬遼太郎さんの名著『街道をゆく』シリーズではありませんが、歴史、文化、思い出などをリンクさせ、訪れた地を順々にスケッチ風+ルポ風に綴っていこうと思っています。
すべてを網羅するのは無理なので、ここぞというスポットを独断でピックアップしました。
ご了承願います。
今回が前編、次回が後編の2回シリーズです。
☆大阪城から法円坂遺跡、難波宮跡へ
雲一つない快晴の下、自宅からママチャリに乗って大阪城天守閣に来ました。
ここは標高38メートル。
上町台地で一番高いところです。
この天守閣、昭和6(1931)年に市民の寄付で再建されました。
モデルになったのが『大坂夏の陣図屏風』ですが、場所と外観が、豊臣の城とのちに建てられた徳川の城とも異なっているんです。
物心ついて以来、「大阪城=豊臣秀吉の城」の図式が頭の中で定着していたので、このことを知ったときは驚天動地の心境に陥りました。
太閤さんが築いた豊臣大坂城(1583年)は、大坂夏の陣(1615年)で徳川方の攻撃で焼失してしまいました。
昭和34(1959)年、その城が現在の大阪城の地下に眠っていることがわかり、発掘調査によって当時の石垣や遺構が次々と見つかっています。
「太閤さんのお城」が少しずつ目に見えてきているのがうれしいです。
説明パネルに調査プロジェクトが詳細に記されていました。
それを見入っていた初老の男性から「67年前、大坂城跡が国の特別史跡と重要文化財に指定されていたんですなぁ。
知ってはりましたか」と声をかけられました。
えっ、知らなかった。
あまりにも身近な存在だけに、そこまで意識しなかったです。
何だか気分が良くなり、自転車にまたがって馬場町交差点の南西角に建つ大阪歴史博物館とNHK大阪放送局の南側へ向かいました。
ここはかつて大阪市中央体育館の広場で、幼いころ近所の子たちと野球を楽しんだところです。
たまたまホームラン級の当たりが出て、上町筋の東側にあった旧NHK社屋の窓ガラスを割ったこともありました。
もう時効ですね(笑)。
現在、高床式倉庫が復元されています。
古墳時代中期の5世紀後半、この地は難波津と呼ばれていた港の中心地で、物資の一大集積地であり、16棟の大きな倉庫が建ち並んでいたそうです。
中国や朝鮮からの外交使節を迎え、遣隋使・遣唐使の発着場にもなっていたというから驚きです。
昭和62(1987)年に倉庫群が発見され、平成13(2001年)に法円坂遺跡として国の史跡に指定されました。
ここも重要な史跡なんや!
この遺跡のすぐ近く、法円坂交差点の南東一帯に広がる緑地が、難波宮(なにわのみや)跡です。
大化改新(645年)後、都が飛鳥からここに移され、8世紀末までの約150年間、首都、あるいは副都として日本の古代に大きな役割を果たしていました。
もちろん、ここも国の史跡ですが、今では難波宮跡公園として市民の憩いの場になっています。
復元された大極殿基壇の前で、子どもたちが元気よくサッカーボールを蹴っていました。
のどか、のどか。
ここから眺める天守閣もなかなかええ塩梅です。
つくづく思います。
上町台地の最北部は、紛れもなく大阪、いや日本の中枢だったんですね。
大阪の基層(礎)のすべてがこの地に凝縮されていることをもっと大阪人に知ってもらいたいなぁ~。
☆龍造寺町から近松門左衛門の墓へ
このあと上町筋を南下し、日本陸軍の近代化に務めた元長州藩士、大村益次郎(1824~69年)の殉難報国碑がある上町交差点(かつての上本町1丁目)に来ると、ぼくの子ども時代のテリトリー(生活圏)に入ります。
なにせ、生家のある龍造寺町はここから南へ100メートルほどのところですから。
この石碑の側壁によじ登り、知らないおっちゃんから「バチ、当たるぞ!」とよく叱られました。
今では、よその子に叱る大人がいませんね。
道路を隔てて南側のお菓子屋さんを目にした途端、目頭が熱くなりました。
この店、ぼくが生まれたときからあったんです。
頑張ってはります!
龍造寺町界隈は大阪大空襲に遭わず、明治・大正期に建てられた古い家屋が密集していたんですが、昨今、マンションが相次いで建てられ、街の様相が変わってきました。
生家は半世紀前に人の手に渡り、空き家になっています。
気になったので、久しぶりに訪れると、まだ健在で改修されていました。
よかった!
それにしても、この界隈に足を踏み入れると、あっという間に幼少時代にタイムスリップしてしまいます。
続いて上本町1丁目交差点(かつての上本町2丁目の方が馴染みやすい!)から長堀通を東へ、緩やかな坂を下っていき、母校の清水谷高校へ。
ぼくは陸上部員でした。練習で正門からカーブしているスロープを何度もダッシュしていました。
青春時代の思い出がぎっしり詰まった学び舎、随分、垢抜けていました。
しばし郷愁に浸ってから空堀商店街を経て、谷町筋の「気になる場所」へ向かいました。
そこは『曾根崎心中』や『心中天網島』などで知られる近世の戯作者、近松門左衛門(1653~1725年)の墓です。
谷町7丁目交差点の少し南側、白いマンションとガソリンスタンドの間にあります。
幅1メートルほどの墓地参道の奥の左手が墓石です。
なんでこんなところにお墓があるのでしょう。
もともとこの地に妙法寺という寺院があり、その境内に墓が建てられていました。
しかし昭和33(1958)年、谷町筋の拡張工事で寺が大東市へ移転した際、墓だけがここに残されたんです。
どういうわけか、兵庫県尼崎市にも近松の墓があります。
正直、向こうの方が立派です。
悔しいなぁ……。
近松が生前、浄瑠璃の題材を集めるために、「取材」した場所が新町(西区)の遊郭でした。
ぼくが今、住んでいるところです。
そういう事情から、近松門左衛門という人物がすごく近しく思えるのです。
☆熊野街道へ経て、生國魂神社でオダサクさんと対面
墓参のあと、谷町筋から西へ入り、熊野街道を走行しました。
進行方向の先には、天空を突き刺すあべのハルカス。
それがビルの谷間に望め、思わず感動しました。
熊野街道は、平安中期から盛んになった熊野三山(和歌山県)への参詣のために天満橋たもとから設けられたルートで、「紀伊路」とも呼ばれています。
紀伊半島南部にある本宮、新宮、那智の三つの聖地を合わせた熊野三山は、浄土信仰と相まって、「浄土の地」と考えられていました。
つまり生きながら清らかな仏の世界(浄土)にたどり着ける場所だったのです。
熊野街道が敷かれた上町台地は、そんな浄土へと通じる道なんですね。
そう思うと、何だか不思議な気分になってきます。
当時、人々はどんな思いを抱いてこの道を歩いていたのでしょうかね。
そんなことを考えているうちに、生國魂神社(いくたまさん)へ来ていました。
この神社とゆかりのある井原西鶴(1642?~93年)の像が境内北側にあります。
近松門左衛門と並び称される傑出した近世の戯作家です。
死をも美化するロマンチストの近松に対し、西鶴は『好色一代男』などの世俗的な浮世草子(小説)でわかるように、とことん現実を見据えたリアリストでした。
好対照の2人をほぼ同時代の大坂が輩出したのが興味深いです。
西鶴像の斜め前、飄然と立っているのが『夫婦善哉』で知られる作家オダサクこと、織田作之助(1913~47年)の像です。
この人、いくたまさんの近くで生まれ育ちました。
この境内が幼いころの遊び場だったのでしょう。
オダサクさんは文句なく、井原西鶴の路線を継承した作家です。
「上町台地の縦断、ご苦労さん。ちょっとここで一服していきなはれ」
そんな声がオダサクさんから聞こえてきたので、ここで“缶コーヒーブレーク”。
スタート地点から直線距離でまだ二・七キロですが、あちこち立ち寄ったので、随分、走行してきたと錯覚してしまいました。
このあとは次回の後編で、乞うご期待~!