映画が日本で最初に上映されたのは京都ではなく、大阪だった~!
拙著『大阪「映画」事始め』(彩流社)のトピックスに対する「反論」の講演会が昨日(28日)、京都・壬生のおもちゃ映画ミュージアムで開かれました。
血まみれのバトルを期待していた人が多いかと思いますが、お互い大人、それなりに穏やかに事が収まりました~
講演者の森恭彦さん(読売新聞大阪本社編集委員、後輩)が「いけず」的な発言をチクチク発していたようですが、鈍感なのか、あまり分かりませんでした(笑)
典型的な大阪人と京都人の対論、我ながらオモロかった~
講演のあと、雰囲気が一転、陽気なライブに~
友人のシンガー、西川⭐ハニー⭐敦子も歌ってくれ、デュオを楽しみました~⤴
実に刺激的なひと時でした~❗
以下、ミュージアムのブログに載せる原稿です。
これがぼくの本心です~(^_-)-☆
「大阪も京都も同じ関西、大らかにいきまひょ~!」
京都人、稲畑勝太郎さんのシネマトグラフ。
大阪人、荒木和一さんのヴァイタスコープ。
120年前、ほぼ同時期に片やフランスから、片やアメリカから2つの映画(スクリーン投影式上映機)が日本にもたらされました。
今回、拙著『大阪「映画」事始め』(彩流社)を上梓するに当たり、映画渡来に関する第1章については、「定説」をわかりやすくまとめるつもりでした。
つまり、シネマトグラフが京都電灯の中庭(現在、旧立誠小学校)で最初に試写(上映)が行われ、その後、大阪・難波の南地演舞場(現在、TOHOシネマズなんばが入るビル)で一般公開され、それが日本の映画興行の始まりとなった――ということ。
そこでいくたの文献・資料を調べていくうち、荒木さんがあまりにも映画史の中で埋没していることがわかってきました。
ほとんどシネマトグラフに関心が向けられ、ヴァイタスコープは添え物的。
かなりの温度差です。
気の毒やん。
何でこうなってしもたんや?
荒木さんは心斎橋の舶来品輸入業「荒木商店」の店主で、のちに加奈陀サン保険生命会社(本社・モントリオール)の関西支部長となり、第5回内国勧業博覧会や初代通天閣の建設にも関わり、第一級の英語通訳者でした。
大阪商業会議所(大阪商工会議所の前身)の議員にもなった大阪実業界の顔役。
こうした荒木さんの実績自体があまり知られていませんね。
本書の目的は大阪と映画との深い関わりを探ること。
ならばぼくと同じ大阪人である荒木さんを避けて通れないと思い、徹底的に掘り起こしました。
その結果、発明王エジソンとの直談判の末、個人輸入したヴァイタスコープの試写が大阪・難波の福岡鉄工所(現在、なんばパークス入り口)で行われ、その時期がシネマトグラフの試写よりも早かったことが浮かび上がってきたのです。
「もっと早う光を与えてほしかったなぁ」
調査・執筆しているとき、天国にいるそんな荒木さんの声が聞こえてきました、ほんまに(笑)。
森さんが指摘した、シネマトグラフの芸術的な優位性や映画史における重要性。
確かに仰せの通りです。
しかし同じように、世界の、そして日本の映画史に足跡を残しているヴァイタスコープのことを軽んじるのではなく、謙虚になって「同じ土俵」でしっかり見据えることが大切だと思います。
何もシネマトグラフだけが映画ではありませんから……。
試写を重視しすぎるということも森さんが言うてはりました。
それなら、旧立誠小学校前に「日本映画発祥の地」の説明板を立てる必要はありません。
試写の時期にこだわったからこそ、その説明板が設置されたわけです。
つくづく思います、「シネマトグラフの初上映地」と控えめに表現すべきだったと。
それなら全くノープロブレムやったのになぁ……。
誤解を避けるために言いますが、ぼくは「荒木ヴァイタスコープ原理主義者」ではありません(笑)。
稲畑さんのシネマトグラフにも同じようにリスペクトしています。
明治期に海外から最新の文化(映画)を導入した稲畑さんと荒木さん。
日本における映画の黎明に尽力しはったお2人、ほんまに凄いと思うています。
JRの新快速で30分弱の大阪と京都。
ともに関西。
映画は東京ではなく、こっちから始まった。
それは大阪で芽生え、京都で成長し、熟成した。
それでええやん~(笑)。
文化的な議論に加え、ライブもできて楽しかったです。
和一さん、泉北郡浜寺町船尾七一三のお住まいだったのですね、けっこう近くです、笑。
それにしても、処分された日誌が悔やまれますね~。
御著書の次はぜひ、関西(大阪・京都)映画発祥(芽生え・熟成)ソングを ♪
和一さん、再婚した明治40年に、東区南久宝寺町から酒井へ引っ越しておられます。
関西映画発祥ソングですか(笑) ぼちぼち作詞・作曲します~(^_-)-☆