朝靄に包まれ、紀ノ川を下る数艘の舟。
嫁入りに行く花(司葉子)が乗っている。
非常に優雅で幻想的な場面だ。
中村登監督作品『紀ノ川』(1966年)の冒頭は、有吉佐和子の原作(59年発表)を忠実に再現していた。
場所は戦国の武将、真田幸村ゆかりの地、九度山。
南海高野線九度山駅から坂を下り、街中へ入ると、幸村が閉居した真田庵や抜け穴伝説が宿る真田古墳などがあり、400年ほど前にタイムスリップしそう。
花は、夜半に下流の六十谷(むそた)(和歌山市)に着き、真谷家の長男、敬策(田村高廣)に嫁いだ。
日本の伝統を重んじる古風な女性。
娘の文緒(岩下志麻)はしかし進歩的で、何かと母親と衝突するも、孫の華子(有川由紀)は花と相通じる。
明治、大正、昭和。
激動の時代を絡ませ、3代にわたる旧家の女性たちの生き様を綴った大河ドラマ。
和歌山市生まれの有吉が母方の実家を題材にした小説で、華子が彼女のモデルである。
九度山から、左手に高野山を仰ぎ見ながら、紀ノ川沿いを下った。
すぐ西方に「女人高野」で知られる慈尊院(世界遺産)がある。
花が自身の、そして娘の安産祈願に参詣していた。
境内で初老の男性に声をかけられた。
奈良からスケッチをしに来たという吉田武蔵さん(65)。
「『紀ノ川』ですか。本も映画も懐かしい。下流に行けば、とっておきの場所がありますよ」
この人の助言に従った。
高野参詣大橋から対岸へ渡った。
かつらぎ町ののどかな街中を散策後、JR和歌山線で西笠田(にしかせだ)駅へ。
下車すると、木々で覆われた小島、船岡山(中山)が目の前に浮かんでいた。
ここだ!
映画の冒頭は、実はこの地で撮影された。
北に背山(せのやま)、南に妹山(いもやま)が迫り、万葉の世界が広がる。
はんなりとした川の情景。
心が和らぐ。
原作者が描写したように紀ノ川は紛れもなく女性的だ。
それは主人公、花の資質そのもの。
「悠々と流れによって、見かけは静かで優しい。周りの弱い川は全部、自分が飲み込んでしまう。その代わり見込みのある強い川には全体で流れ込む」
河口の和歌山市内に来た。
主舞台の六十谷と真砂町(現在、芝ノ丁)は住宅地、ビル街と化し、往時の面影はない。
映画のラストと同じように城の天守閣に登り、紀ノ川を目にした。
残念ながら、建物の間からわずかにしか望めない。
『華岡青洲の妻』『有田川』」『日高川』……。
有吉作品には和歌山の話が多いのに不思議なことに文学碑がない。
なぜ?
素朴な疑問を抱きつつ、九度山の方へ視線を移した。
◎紀ノ川
奈良・大台ケ原に水源を持つ長さ136㌔の一級河川で、河川法上の正式名称は「紀の川」。中央構造線の南側を流れ、紀伊水道に注ぐ。川に沿って大和街道がある。奈良県では吉野川と呼ばれる。
(読売新聞2012年8月14日朝刊『わいず倶楽部』。ブログへの掲載を許諾済み。無断転載禁止)