美しい街並みを誇るラトヴィアの首都リガで、『バリケード博物館』というなんとも物騒な名をもつ博物館に入りました。
博物館といっても、ふつうの建物の2階部分を展示スペースにした、ひじょうに小さなものですが、そこには今日のラトヴィアが誕生した大きな歴史が刻まれていました。
リトアニア、ラトヴィア、エストニアのバルト3国は、大国に支配されてきた哀しい歴史をもっています。
現代史だけをみても、第1次大戦前はロシア帝国の領土で、戦争中はドイツに占領されました。
大戦終結後の1918年~40年はなんとか独立を保ったけれど、40年~41年、ソ連に併合され、第2次大戦中の41年~44年にはナチス・ドイツが進駐、そして44年~91年(リトアニアは90年)にふたたびソ連に支配されました。
このように主にロシア人とドイツ人が、バルト3国の歴史を操ってきたと言っても言い過ぎではないでしょう。
とりわけ、無理やりソ連邦に組み入れられた最近の50年間の印象がことさら強く、バルト3国といえば、すぐソ連というイメージをいだくほどです。
1989年のベルリンの壁崩壊にはじまり、東ヨーロッパの社会主義国家が崩壊した東欧革命を経て、東側の盟主ソ連そのものが瓦解していた時期、バルト3国がつぎつぎに独立を果たしました。
その際、リトアニアとラトヴィアでは、独立をめざす市民とそれを阻むソ連軍とのあいだで銃撃戦が起きました。
1991年1月20日の日曜日、市民が立てこもるリガのラトヴィア内務省ビルにソ連の特務部隊が急襲し、6人の死者と大勢の負傷者を出しました。そのときの様子を映像や資料で克明に解説しているのが『バリケード博物館』です。
リトアニアでは、その1週間前の1月13日、首都ヴィリニュスで市民とソ連軍が衝突し、14人の民間人が亡くなっています。
それはまさに悪あがきをするソ連の醜態を世界にさらけ出した瞬間でした。
「ほんの18年前の出来事です。私たちは絶対に忘れません」
受付にいた若い女性がわかりやすい英語で話してくれた言葉が胸に響きました。
ラトヴィアでは、ロシア系住民が30%近くも占めるだけに、独立への道は困難をきわめました。流血が、とてつもなく哀しい。
それにしても、ソ連という国はいったい何だったのか……。バルト3国を滞在中、常にこの疑問符がぼくの頭を駆け巡っていました。
バルト3国リポート(11)~
投稿日:2009年12月16日 更新日:
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