武部好伸公式Blog/酒と映画と旅の日々

ケルト文化に魅せられ、世界中を旅するエッセイスト・作家、武部好伸。映画と音楽をこよなく愛する“酒好き”男の日記。

バルト3国レポート(2009年夏)

バルト3国リポート(11)~

投稿日:2009年12月16日 更新日:

リガ・バリケードM(1)
美しい街並みを誇るラトヴィアの首都リガで、『バリケード博物館』というなんとも物騒な名をもつ博物館に入りました。
博物館といっても、ふつうの建物の2階部分を展示スペースにした、ひじょうに小さなものですが、そこには今日のラトヴィアが誕生した大きな歴史が刻まれていました。
リトアニア、ラトヴィア、エストニアのバルト3国は、大国に支配されてきた哀しい歴史をもっています。
現代史だけをみても、第1次大戦前はロシア帝国の領土で、戦争中はドイツに占領されました。
大戦終結後の1918年~40年はなんとか独立を保ったけれど、40年~41年、ソ連に併合され、第2次大戦中の41年~44年にはナチス・ドイツが進駐、そして44年~91年(リトアニアは90年)にふたたびソ連に支配されました。
このように主にロシア人とドイツ人が、バルト3国の歴史を操ってきたと言っても言い過ぎではないでしょう。
とりわけ、無理やりソ連邦に組み入れられた最近の50年間の印象がことさら強く、バルト3国といえば、すぐソ連というイメージをいだくほどです。
1989年のベルリンの壁崩壊にはじまり、東ヨーロッパの社会主義国家が崩壊した東欧革命を経て、東側の盟主ソ連そのものが瓦解していた時期、バルト3国がつぎつぎに独立を果たしました。
その際、リトアニアとラトヴィアでは、独立をめざす市民とそれを阻むソ連軍とのあいだで銃撃戦が起きました。
1991年1月20日の日曜日、市民が立てこもるリガのラトヴィア内務省ビルにソ連の特務部隊が急襲し、6人の死者と大勢の負傷者を出しました。そのときの様子を映像や資料で克明に解説しているのが『バリケード博物館』です。
リガ・バリケードM(2)
リガ・バリケードM(3)
リトアニアでは、その1週間前の1月13日、首都ヴィリニュスで市民とソ連軍が衝突し、14人の民間人が亡くなっています。
それはまさに悪あがきをするソ連の醜態を世界にさらけ出した瞬間でした。
「ほんの18年前の出来事です。私たちは絶対に忘れません」
受付にいた若い女性がわかりやすい英語で話してくれた言葉が胸に響きました。
ラトヴィアでは、ロシア系住民が30%近くも占めるだけに、独立への道は困難をきわめました。流血が、とてつもなく哀しい。
それにしても、ソ連という国はいったい何だったのか……。バルト3国を滞在中、常にこの疑問符がぼくの頭を駆け巡っていました。

-バルト3国レポート(2009年夏)

執筆者:


comment

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

関連記事

バルト3国レポート(10)~

バルト3国レポート(10)~

バルト3国の旅の報告が、ラトヴィアのリエパーヤで止まったままになっていました。きょうは首都リガへ進めます。 リエパーヤの寂れた鉄道駅の前にあるバスターミナルから、長距離バスに揺られ、うとうとしていたら …

バルト3国レポート(17)~

バルト3国レポート(17)~

エストニアの西の海に浮かぶヴォルムスィ島へ渡りました。海とはもちろん、バルト海です。 ハープサルからバスで本土の西端にあるロフクラの波止場へ向かい、そこからフェリーに乗り、約50分で島に着きました。 …

バルト3国レポート(19)~

バルト3国レポート(19)~

阪神、きょうは敗れたけれど、横浜との開幕3連戦で2勝1敗。まぁ、善しとしましょう。 打撃のチームだから、とにかく打ちまくっていかなしゃーない! さて、バルト紀行です。 エストニアの首都タリンをご案内し …

バルト3国レポート(13)~

バルト3国レポート(13)~

2月になりました。1年の12分の1が過ぎ去ったということ~です。 「ケルト」紀行の写真集(ヴィジュアル版)=上下巻=を春に出すことになり、その作業にずっと没頭しておりまして……。 元日返上で仕事をして …

バルト3国レポート(18)~

バルト3国レポート(18)~

エストニアのヴォルムスィ島で、予想をはるかに上まわる数のケルト十字架を眼にしてから、村のカフェでビールと軽いランチを取りました。 その店でタリンから遊びに来たという青年と知り合いました。エストニアの若 …

プロフィール

プロフィール
武部好伸(タケベ・ヨシノブ)
1954年、大阪生まれ。大阪大学文学部美学科卒。元読売新聞大阪本社記者。映画、ケルト文化、洋酒をテーマに執筆活動に励む。日本ペンクラブ会員。関西大学非常勤講師。