今年のアカデミー賞で作品賞と脚本賞に輝いたアメリカ映画『スポットライト 世紀のスクープ』。
本当に見ごたえのある映画でした。
ぼくの記者体験をまじえ、この作品についてあれこれと綴った文章が『大阪映画サークル』(2016年4月1日発行)に掲載されました。
ちょっと長いですが、全文をどうぞ~(^_-)-☆
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スクープ(特ダネ)――。
野球に例えれば、まさにホームランである。
この映画のスクープは、みっちり打撃練習を積み重ね、ピッチャーの投球や球種、配球まで知り尽くした上でのホームラン。
それも特大の場外ホームランだ。
全て実話。
アメリカ北東部の都市ボストンを拠点にする地方紙ボストン・グローブ紙が2002年1月に一面を飾り、世界的にも反響を及ぼした快挙を描いている。
ぼくは某全国紙の記者だった。
21年前、中途退職してフリーになったので、記者生活は17年間しかなく、ゆめゆめ大それた記者ではなかったけれど、他紙が後追いする特ダネを何度か書いたことがある。
だから本作の邦題を目にしたとき、心がざわついた。
そして映画が始まるや、冒頭からラストに至るまで、記者時代を思い浮かべながら、うん、うん、そや、そやと心の中でつぶやき、ワクワクしながら観入ってしまった。
それは新聞記者像や取材班の雰囲気、取材のプロセスに誇張やウソがなかったからである。
アメリカであれ、日本であれ、取材活動は基本、地味なのだ。
ネット社会に突入し、国内外を問わず新聞業界は厳しい状況に立たされている。
もはやテレビともどもメディアの王道ではなくなった。
アメリカの新聞社では約20年前から危機感を募らせている。
だからこそ速報性だけではなく、きちんと裏を取った読みごたえのある濃密な記事が求められている。
2001年の夏、マイアミ・ヘラルド社からボストン・グローブ社に転属してきた新編集局長マーティ・バロン(リーヴ・シュレイバン)はそこに目をつけ、ある事案を検証するよう指示した。
それはカトリック神父による児童への性的虐待。
よくありがちな「下ネタ」で、一過性の出来事なら二社面の頭くらいの扱いだ。
当初、社会部長ベン・ブラッドリー・Jr.(ジョン・スラッティリー)ら編集局幹部はバロン局長の意向に反対した。
余談だが、この社会部長の父親が、1972年当時のニクソン大統領の辞任につながるウォーターゲート事件をすっぱ抜いたワシントン・ポスト紙の編集局長。
それを描いた『大統領の陰謀』(1976年)ではジェイソン・ロバーツが演じていた。
話を戻す。
編集局幹部が反対した理由は、購読者の53%がカトリック信者だからである。
ボストンは、マーティン・スコセッシ監督『ディパーテッド』(2006年)やベン・アフレック監督『ザ・タウン』(2010年)などの映画を観てわかるように、アイリッシュ系とイタリア系が多く、当然、カトリック信者もメジャーだ。
その頂点に立つカトリック教会は絶大な力を有するボストンの権威でもある。
このように新聞社の経営に関わる問題とあって、社内ではカトリック教会に触れるのはタブー視されていた。
バロン局長はしかし、あえてそこにメスを入れようとした。
ボストンの特殊な事情に染まっておらず、ユダヤ教徒であるという、いわば「よそ者」的なスタンスを保っていたからこそ、取材に着手することができた。
新聞の編集権は独立しているといわれているが、実際には大手広告主や、いわゆる「裏の圧力団体」にとって都合の悪い記事はまず書けない。
ぼくが科学部記者のとき、某国立大学医学部のチームが、ディーゼルの排気ガスとガン発生の因果関係を動物実験で初めて証明し、それを日本ガン学会で発表するという情報をつかんだ。
他社は知らない。
特ダネだ!
興奮しながら記事を書いたら、そのことを知った広告局の幹部が駆けつけ、記事が差し止められた。
なぜなら、当日の新聞に某大手自動車メーカーのディーゼル車の広告が掲載されることになっていたから。
結局、その記事は後日、科学面で小さな扱いになってしまった。
こんなケースは他にもいろいろある。
新聞は決して強いものではない。
あくまでも商品だということを改めて痛感させられた。
記者は新聞社という組織に属するサラリーマンであるがゆえ、ことさら「わが社」意識が強く、スポンサーとの絡みで商業主義に迎合せざるを得ない場合もある。
それゆえ新聞記者は真のジャーナリストにはなりにくい。
本当にジャーナリストになりたければ、何のしがらみもないフリーになるか、儲け度返しでミニコミ紙を発行するしかない。
こんな現状を鑑みると、バロン局長の英断には心から敬意を表したい。
自社の経営よりも編集を優先させた。
相当な勇気と覚悟がいる。
そして権威・権力に立ち向かい、それが不正を働いていないかどうかをチェックするジャーナリズムの根幹を貫いたのである。
取材に当たったのは「スポットライト」という特集面を担当する4人の記者。
新聞記者と言えば、「切った張った」のがさついたイメージを思い浮かべるかもしれないが、彼らは遊軍記者的な存在で、事件記者のように目をぎらつかせてはいない。
しかもライバル紙を「抜く」ことはあっても、「抜かれる」ことはない。
現役当時、ぼくはそういう記者を本当に羨ましく思っていた。
記者は持ち場を受け持った瞬間から、「抜いた」「抜かれた」という厳しい現実に直面する。
よほどの大ニュースでない限り、読者にはそのことがわからず、所詮、〈記者のマスターベーション〉ともいわれている。
しかし競争原理が働かないと、いい仕事ができない。
ぬるま湯では、絶対にいい記事が書けないと思う。
もちろん精神的にかなりストレスを抱え込む。
ぼくが新聞社を辞めたとき、「あゝ、これで抜かれることがなくなった」と心底、安堵したのを昨日のことのように覚えている。
本作で描かれる題材は、記者が事実とデータを積み重ね、きちんと証拠をつかんで報じる典型的な調査報道である。
その取材方法を実に丁寧に描いてくれている。
4人が取材を進めていくうちに、予想をはるかに超える実体が明るみになり、その反響の大きさを鑑みれば、日常の取材に追われる記者が片手間に処理できる案件ではない。
こういう場合は通常、中堅・ベテラン記者からなる専従の取材班を設ける。
「スポットライト」取材班の面々がいかにも素の新聞記者らしい。
生粋のボストンっ子であるキャップのヴィルター・“ロビー”・ロビンソン(マイケル・キートン)には負い目がある。
25年前の神父の犯罪を知人の弁護士からリークされながら、首都圏版の穴埋め記事にしか使わなかったことだ。
当時、ロビーは別件の大きな事件を追っていたと思いたい。
あのとき大きく報じておれば、子どもの被害が抑えられていたという自責の念を抱いている。
ベタ記事の中に大きなネタが転がっていることがある。
そのことはぼくも経験上、知っているだけに、取材にかける彼の意欲がよくわかった。
タクシー運転手から記者に転身したマイク・レゼンデス(マーク・ラファロ)はフットワークが軽く、見るからに社会部記者丸出しだ。
原告側の弁護士(スタンリー・トゥッチ)が取材を拒否し続けても、決して諦めない。
忙しそうに動き回る彼の背中を見ていると、「ヘビのようにしつこくなれ」という先輩記者の言葉が思い出された。
紅一点のサーシャ・ファイファー(レイチェル・マクアダムス)も粘り強い。
記者に最も必要とされるのはやはり粘り強さかもしない。
淡泊な人は向かない。
彼女は被害者1人ひとりに会って綿密に胸の内を聞き出す。
これらの証言が記事の核心部分となるのだから、手が抜けない。
取材で大事なことは相手に質問しないこと。
えっと首を傾げるだろう。
でもそうなのだ。
まずは相手に寄り添っていくことが第一。
とりわけ社会的弱者である犯罪被害者の場合はそれが欠かせない。
いきなりあれこれと聞くと、たいてい態度が硬くなり、本音が聞けない。
会話による言葉のキャッチボールができれば、そのうち本音を吐露してくれる。
ファイファーは親身になって被害者に寄り添っていた。
きちんと誠実に取材しているなぁと思った。
それと加害者側(神父)への取材も敢行していた。
被害者は苦い思い出を甦らせたくないという心理が働き、口が堅くなる。
でも真摯に向き合えば、ポツリポツリと話してくれることが多い。
一方、加害者側はよほど時間が経たない限り、まず口を割らない。
それでも取材せねばならない。
何事も1つの方向だけを見ていると、なかなか事の本質が見えないからだ。
加害者側をはじめ多極的に取材してこそ、真の意味で裏が取れる。
困難な取材の向こうに事実がある、というのは間違っていないと思う。
彼女のひたむきな姿勢は記者の鑑だ。
最後の1人、寡黙なマット・キャロル(ブライアン・ダーシー)は取材もさることながら、データ分析に長けた人。
取材班にこういう記者がいると、間違いなく効率的に動ける。
新聞記者はぼくのような文系人間が多いが、理系の記者がいると、取材の道筋が立てやすく、思わぬヒントを得ることがしばしばある。
本作では、子どもを虐待した疑いのある神父が教会の年鑑で「病気療養」や「休職中」と示され、いずれも短期間に転属させられていることをキャロルが見つけた。
そのことによって実体解明に大きく近づくことができた。
取材班といえども、取材するのは原則的に1人。
なので個々の取材力がモノを言う。
それぞれ入手した情報を持ち寄り、それを基に次なる取材ターゲットを決める。
ややこしそうなら、複数で当たる。
徐々に全貌が浮き彫りになるにつれ、たまらなく高揚感を覚える。
うまく取材がはかどると、不思議なことにいろんな有益な情報が飛び込んでくる。
特ダネの情報を入手し、取材を始めたら、他社はもちろんのこと、自社の記者にも漏らさない。
これは鉄則だ。
本作では、司法担当の記者だけでなく、直属の上司である社会部長にすら教えない情報があったのには驚いた。
ロビーが裁判所でライバル紙のボストン・ヘラルドの記者と出会ったときのポーカーフェイスには、思わずうなずいてしまった。
個々の被害ケースを記事にするだけでも大スクープなのに、編集局長は、カトリック教会が組織ぐるみで神父の犯罪を隠ぺいしている事実をつかむまで書くなと命じる。
単なる犯罪報道にしてはいけないという判断だ。
そして全てを掌握すると、最後に教会の頂点に君臨するロウ枢機卿、つまり最高責任者に取材結果(動かぬ証拠)を突きつけ、コメントを取る。
取材を始めてからゴールインするまでの長く、困難なプロセスが、記者たちの体温と吐息を伴ってあますことなく描かれている。
まさに報道現場の実際の世界。
それをトム・マッカーシー監督は驚くほど忠実に再現していた。
取材班のだれも突出していない。
だから主演俳優は存在しないのである。
こうした点がアカデミー賞作品賞に輝いた最大の理由だったかもしれない。
「これを記事にした場合、責任は誰が取るのだ?」
被害者の情報を握る弁護士からこう訊かれ、レゼンデス記者がすかさず逆質問した。
「では、記事にしない場合の責任は?」
この言葉にこそ社会正義に根差したジャーナリスト魂が凝縮されている。
その結果(ご褒美?)として、スクープにつながったのだ。
特ダネ至上主義はあまりよくないかもしれないけれど、それでもやはり思う。
新聞記者の最高の醍醐味はスクープを放つことだと!