海辺の聖地ラーメシュワラムに来たからには、眼と鼻の先にあるスリランカを見たい!
これまで2度、訪れているスリランカをインドから見ることができたらシメたもの。
よし、半島の最先端まで行こう!
といっても、どう行けばいいのかわからない??
ヨーロッパのように観光案内所があれば、そこで訊けるのですが、ここには観光案内所自体がありません。
そこでホテルのスタッフに訊いたら、あれこれと手配をしてくれました。
ありがたい。
何でもリクシャーでダーナシュコディ村まで行き、そこからジープかワゴンに乗って先端近くまで連れて行ってくれるという。
これしかない!!
すぐにお願いしました。
料金はすべて込みで800ルピー(約1600円)。
ちょっと高いけれど、致し方なし。
午後3時半にリクシャーがホテルの前に到着。
それに乗って、グングン東の方へと向かいました。
着いたところが漁村でした。
小魚を干している匂いが濃厚に漂い、一瞬、ムッとしました。
そこがダーナシュコディ村でした。
ジープとワゴンがいっぱい停まっています。
リクシャーの運転手がワゴンの運転手と何やら交渉しています。
もちろん、2人はタミール語です。
「ジャパニ(日本人)」という言葉が聞こえてきたので、ぼくのことをお願いしているのでしょう。
ワゴンは満席にならないと出発しません。
定員以上に詰め込んだワゴンが次々と発っていきます。
気がつけば、ぼくが特等席の助手席に乗せてもらったワゴンも超満席状態になり、いよいよ出発。
他の乗客は、みなインド各地から来た観光客(あるいは巡礼者)です。
ワゴンはいきなり海の中に突っ込み、それから浜辺へ上がり、また海へ。
すごい起伏のあるところを装甲車のごとく突き進んでいきます。
4輪駆動車なので、怖いモノなし!!
なかなかスリリング!!
約30分後、小さな集落に着きました。
そこが終点です。
1時間後に戻るように~と運転手から指示され、乗客たちは三々五々、散っていきました。
ここも漁村でしたが、1964年のサイクロンで村は壊滅したそうです。
その残滓があちこちにありました。
胸が痛む……。
乗客たちは浜辺の先端を目指して歩いています。
スリランカを見ようとしているのでしょう。
同胞のタミール人がスリランカの北部と東部に暮らしています。
スリランカの住民の7割がシンハラ人で、残りの少数派がタミール人です。
イギリス植民統治時代、スリランカの中央高地で始まった紅茶プランテーションの労力確保のため、南インドからタミール人を連れてきましたが、その後、出稼ぎのため、多くのタミール人が北部に移住し、住み着きました。
先住のシンハラ人は仏教徒、タミール人はヒンドゥ教徒。
マイナーなタミール人は次第に差別され、その不満をスリランカ政府にぶつけ、分離独立を主張するスリランカ内戦(1983~2009年)へと発展しました。
タミール・イーラム解放のトラ(LTTE)という組織が当時、ニュースでよく眼にしました。
それまで、わずか20キロしか離れていないラーメシュワラムとスリランカの間にフェリーが就航していたのですが、内戦後、航路が閉鎖され、残念ながら今でもまだそのままです。
タミール人にとって、スリランカは独特な思いのある島なのです。
よほど空気が澄み切っていないと、スリランカが見えないといわれています。
この日も快晴だったので、ぼくは眼を凝らして見ました!!
でも、無理でした。
ただし、心眼はちゃんとスリランカを捉えていました~(^_-)-☆
翌日、巡礼者でにぎわうラーメシュワラムの沐浴場から海外沿いに歩いて北上しました。
徒歩で未知なるところへ行くのが大好きなんです~(^_^.)
舗装された道、エメラルドグリーンの海、乾燥している空気……。
何だかポルトガルの海辺に来ているような錯覚に陥りました。
浜辺にはヒンドゥの神々が祀られていました。
漁船が浮かんでいるだけで、人の気配がありません。
驚くほど静か。
ええ塩梅です。
さらに歩きました。
オライクダ(Oraikuda)村の表記。
貧しい漁村です。
昨日、訪れたダーナシュコディ村の方がさらに殺風景でしたが、何となく雰囲気がよく似ています。
日曜日だったので、村は静まり返っていました。
こんな辺鄙な村を外国人が炎天下、歩いているので、行き交う人たちはちょっと怪訝な表情。
でも、「ハロー!」と挨拶したら、みな笑顔で「ハロー」と返してくれます。
数日前もこういう経験をしました。
すれ違った中年の男性からいきなり、「写真を撮ってくれ!」と言われたので、びっくり仰天。
ちゃんと撮らせていただきました~(笑)
よくよく村を見ると、どの家もヒンドゥの神々ならぬ、聖母マリアの肖像が玄関に飾ってありました。
村には立派なカトリック教会も建っています。
昨日の村の住民もキリスト教徒でした。
そうなんだ!
インドのカースト制は法的には解消されたことになっていますが、現実にはしっかり残っています。
カーストにすら入られない被可触餞民の人たちもかなりいます。
彼らは「指定カースト」に属し、あのマハトマ・ガンジーが「神の子」(ハリジャン)と呼んだ人たちです。
そういう人たちはヒンドゥ教の社会では差別されたままなので、キリスト教やイスラム教、仏教へと改宗しているといわれています。
実際、貧しい暮らしをしている地区の住民はほとんどキリスト教でした。
この漁村もおそらくそうだと思います。
昨日、ワゴンの運転手や乗客たちは決して漁民たちに近づこうとしませんでした。
ぼくが漁民に話しかけに行ったら、あえて見ない素振りをしていたのを知っています。
こういうところにインドの「負の部分」が感じられました。
村から砂の道を伝って、海に出ました。
その途端、波浪の音が耳に心地よく聞こえてきました~(^_^)