武部好伸公式Blog/酒と映画と旅の日々

ケルト文化に魅せられ、世界中を旅するエッセイスト・作家、武部好伸。映画と音楽をこよなく愛する“酒好き”男の日記。

ポーランド紀行(2011年夏)

ポーランド紀行(2)~ワルシャワ、戦争の残滓

投稿日:2011年8月9日 更新日:

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いきなりおぞましい写真を見せます。
第2次大戦が終わったときのワルシャワを俯瞰撮影したものです。
壊滅としか言いようがありません。
空襲で街が破壊された東京や大阪とは違って、市街戦でこうなったのだから、いかに激しい闘いだったのかがわかります。
ワルシャワの街を歩くと、戦争の残滓がそこかしこにあります。
これは市内で唯一残っているゲットー(ユダヤ人隔離居住区)の壁です。
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1939年の開戦直後、ドイツ軍はあっと言う間にポーランドを占領しました。
同時に東部はソ連軍の手に。
ドイツ占領地区の都市部では翌年から、ゲットーが次々に建造され、ユダヤ人を強制的に移住させました。
その中で最大のものがワルシャワのゲットー。
市内のど真ん中に高さ3・5メートルの壁が張りめぐらされました。
敷地は307ヘクタール、だいたい甲子園球場の78倍です。
そこにワルシャワをはじめ各地から集められたユダヤ人が押し込められました。
最大で50万人も暮らしていたというから、すごい人口密度ですね。
この写真はゲットーにいたユダヤ人たち。
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壁があったところを示す路上の表示が、街のあちこちで目につきます。
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当時のワルシャワの人口は約130万人で、その30%がユダヤ人だったといわれています。
ポーランド全土でも、総人口約3000万人のうち10%の300万人がユダヤ人でした。
この国はユダヤ人に対して比較的、寛大だったようです。
もちろん反ユダヤ人感情がなかったとはいえませんが……。
1943年4月、ドイツ軍がゲットーを壊し、居住ユダヤ人を強制収容所へ送ろうとしたとき、反乱が起きました。
いわゆるワルシャワ・ゲットーの蜂起です。
この時の様子は、ロマン・ポランスキー監督の『戦場のピアニスト』に詳しく描かれています。
火炎瓶と手榴弾を手に老若男女、すべてが立ち上がり、圧倒的な兵力をもつドイツ軍を相手に1か月以上も抵抗したといわれています。
ドイツ軍に鎮圧された後、生き残ったユダヤ人は全員処刑され、ゲットーは解体されましたが、ソ連軍がやって来たとき、2万人のユダヤ人が壁の裏側に隠れているのがわかりました。
この蜂起の犠牲者を弔うため、戦後、ユダヤ人の手でゲットー英雄の碑が建てられました。
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世界各地からユダヤ人が慰霊に訪れていました。
ゲットーの建物も残っています。
壁には、そのとき住んでいた人たちの写真が貼られていて……。
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まさか殺されるとは夢にも思わず、楽しく散歩している写真もあり、カメラのシャッターを押すぼくの手が震えてしまいました。
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このモニュメントも強烈ですね。
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これはワルシャワ蜂起のモニュメントです。
ユダヤ人がドイツ軍に抵抗した翌年の1944年8月1日、市内に潜伏していたポーランドの国内軍がレジスタンスや市民と共にいっせいに蜂起したのです。
こちらの蜂起の方がよく知られていると思います。
旧市街を出たところに、少年兵の像がありました。
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アンジェイ・ワイダ監督の映画『地下水道』(1956年)は、このときのゲリラ戦をドキュメンタリー・タッチであぶり出したものです。
この映画でも少年兵が出ていました。
ドイツ軍が電話局として使っていたビルをめぐって激しい攻防戦が行われた末、蜂起軍が勝利しました。
今日、再現され、現役の商業ビルとして使われていますが、それはまさに抵抗のシンボルでした。
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この蜂起は、ワルシャワの目前まで進軍していたソ連軍に呼応して立案されました。
しかしソ連軍は動かず、蜂起を傍観していたのです。
蜂起軍が英米の息のかかった反共的なロンドンの亡命政府の命令で動いていたことに、ソ連が反発したからだといわれています。
ワルシャワ蜂起博物館を訪れると、おびただしい資料に圧倒されました。
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ソ連軍の動向についても解説されていました。
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蜂起は63日間続きましたが、連合国の支援もあまり行われず、「ワルシャワを全滅させ、ひとつの湖にしてしまえ」というヒトラーの命令下、ドイツ軍の特殊部隊によって徹底的に封じ込められました。
戦いが終わってからも、処刑が相次ぎ、蜂起を通して22万人の命が失われました。
生き残った人たちもワルシャワ近郊にある絶滅収容所へ送られたそうです。
その数が45万人だったとも。
ほとんどが市民です。
2つの蜂起によって、ワルシャワの市街地の85%が破壊されました。
もう言葉をなくしてしまいます……。
ソ連軍は翌年(1945年)の1月にようやく壊滅状態のワルシャワに進軍し、ドイツ軍を駆逐し、占領(ソ連側からすると解放)しました。
戦後の社会主義時代は、ソ連を批判することはタブーでしたが、民主化が実現した1989年以降、徐々にソ連による“犯罪”を告発するようになりました。
下のモニュメントは、反ソ的な活動をしてシベリアの労働収容所に送られ、亡くなった人たち、そして大戦中にソ連軍がポーランド軍将校を虐殺した「カティンの森」の犠牲者の慰霊
碑です。
貨物に突き刺さったいくたの十字架に無念さが込められているようでした。
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枕木には、殺された場所が記されていました。
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都会そのものが戦場となったワルシャワ……。
計り知れないほど重い刻印を押され、それを今に伝えています。
どのモニュメントを見ても、胸が潰されそうになりました。
でもしっかり瞼に焼き付けてよかったと思っています。
「まだ戦争は終わっていません」
ゲットー英雄の碑に花をたむけていたおばあさんの言葉がすべてを言い尽くしていました。

-ポーランド紀行(2011年夏)

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プロフィール

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武部好伸(タケベ・ヨシノブ)
1954年、大阪生まれ。大阪大学文学部美学科卒。元読売新聞大阪本社記者。映画、ケルト文化、洋酒をテーマに執筆活動に励む。日本ペンクラブ会員。関西大学非常勤講師。