武部好伸公式Blog/酒と映画と旅の日々

ケルト文化に魅せられ、世界中を旅するエッセイスト・作家、武部好伸。映画と音楽をこよなく愛する“酒好き”男の日記。

映画

映画の地を訪ねて(2) 東京・小石川植物園~『赤ひげ』

投稿日:2011年6月27日 更新日:

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都心のど真ん中にこんな閑寂な空間が広がっているとは……。
小石川植物園(東京都文京区)に足を踏み入れた瞬間、普通の公園とは全く違った緑一色の清澄な空気に包まれ、思わず深呼吸をしてしまった。
正式名称は東京大学大学院理学系研究科附属植物園。
約4000種の植物を栽培している教育・研究の実習施設で、日本の近代植物学揺籃の地でもある。
甲子園球場が4つも入る広大な敷地(約16㌶)。
その中央にある四角い井戸を目にするや、黒澤明監督作品『赤ひげ』(1965年)の重厚なモノクロの世界が忽然とぼくの脳裏に浮かび上がった。
江戸末期、長崎でオランダ医学を修得した若き医師、保本登(加山雄三)が、見習い医として小石川養生所に勤務。
「赤ひげ」と呼ばれる老練な医師、新出法定(三船敏郎)に鍛えられ、一人前の医者に育っていく。
山本周五郎の原作『赤ひげ診療譚』に心を打たれた黒澤監督が、足かけ3年を要して完成させた文芸大作だ。
享保7年(1722年)、この地にあった幕府直轄の御薬園に、貧困者のための施療院が創設された。
それが小石川養生所。
その建物を世田谷・砧の東宝撮影所(現在、東宝スタジオ)裏の敷地、通称「農場オープン」に再現させ、3台以上のカメラを同時に回す撮影方法と妥協を許さない濃厚な演出によって、非常に深みのある映像を生み出した。
斜陽の日本映画を救うべしと強い使命感に燃えた監督入魂の一作。
そこには、「医は仁術」という医療・医学の本質が突かれていた。
医師不足や患者のたらい回しなど昨今の医療問題を鑑みると、弱者に対して没我的な愛を注ぎ続けた赤ひげの威風堂々たる姿がまばゆく映って仕方がない。
と同時に、人間愛を根本にするヒューマニズムが、多少、教条的で鼻につくとはいえ、小説以上に満ちあふれていた。
逆境の中でも、人間をとことん信じ、矜持を保って生きることの美しさ。
格差社会が広がる今日では理想論と一蹴されそうだが、それゆえ心の片隅に“重し”として置いておきたいとぼくは思う。
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植物園の中で当時をしのばせるものは、使われなくなったこの井戸と乾薬場跡だけ。
木の屋根に覆われた井戸は、人生の悲哀を抱え込んでいるように感じられ、「貧困と無知を克服するしかない」と吐露した赤ひげの切なる声が聞こえてきそうな気がした。
マツ、カヤ、ヒノキなどが繁る樹林を経て、池が彩りを添える日本庭園をそぞろ歩き。
心が和む。
平日なのに、存外に人が多い。
そして東側の薬園保存園に来た。
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コガネバナ、オウレンなど養生所で栽培されていた薬草が植えられている。
ボランティアでガイドを務める初老の男性が、訪園者に「赤ひげ」のことを説明していた。
黒澤監督の没後10年(2008年現在)。
無性にこの映画を今一度見たくなった。
【メモ】小石川植物園
大都会のオアシスとして散策にはうってつけ。
ニュートンが「万有引力の法則」を発見したリンゴの木(接木)、遺伝学のメンデルが実験に用いたブドウ(分株)などもある。
日本庭園から、赤い洋館建ての旧東京医学校本館(重文)の眺望が素晴らしい。
(読売新聞2008年11月11日朝刊『わいず倶楽部』。ブログへの掲載を許諾済み。無断転載禁止)

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武部好伸(タケベ・ヨシノブ)
1954年、大阪生まれ。大阪大学文学部美学科卒。元読売新聞大阪本社記者。映画、ケルト文化、洋酒をテーマに執筆活動に励む。日本ペンクラブ会員。