未曾有の原発事故を引き起こし、約2万2000人の犠牲者を出した東日本大震災から、今日でちょうど10年。
あの日、ぼくは大阪・北堀江にあった松竹関西支社の試写室で『八月の蝉』を観ていました。
試写室は最上階の8階だったので、かなり大きく、かつ長く揺れましたが、試写は中断されませんでした。
震源地はどこやろ?
関西か!?
まさか南海大震災!?
いろんな想いが頭のなかを駆け巡り、動揺しながらもなんとか映画を観終えて試写室の外に出ると、松竹の宣伝マンが声を震わせていました。
「東北地方がえらいことになってます!」
すぐに帰宅してテレビをつけたら、信じられない光景が……。
そのうち福島の原発が甚大な被害に遭っていました。
ぼくは反射的に立ち上がり、とにかく現場へ行こうと思いました。
「記者魂」が残っていたんですね。
1995年の阪神・淡路大震災のときは新聞記者として取材、報道することができたのですが、あのときはごく普通の一般人……。
一体、何ができるんや。
たとえボランティアで現地に入っても、仕事があるので、すぐに帰阪せなあかん。
うーん、結局、義援金を送ることしかできませんでした。
でも、心のなかではずっとあの震災を引きずっていたんです。
その年の11月20日、ちょかBandの第1回ビッグライブを「チャリティー」として開催し、クリスマスの日、収益金の一部を携え、宮城県の気仙沼へ向かいました。
日本赤十字社などを介さず、どうしても直接、手渡したかったのです。
寄付をしたのは気仙沼青年会議所。
なぜ、その青年会議所なのか--。
7月、ポーランドを旅したとき、古都クラクフで奇跡的にポーランド映画界の巨匠、亡きアンジェイ・ワイダ監督と会うことができたのですが、その思い出深いクラクフの町が気仙沼と姉妹都市協定を結んでおり、毎年5月になると、気仙沼青年会議所から贈られた「鯉のぼり」を川に流しているのです。
そのことを知って、気仙沼青年会議所を訪れたわけです。
これもなにかも縁ですね。
震災から半年が経っていたのに、現場の荒廃ぶりが凄まじかった。
一瞬、阪神・淡路大震災を思い浮かべました。
そして、津波で打ち上げられたあの船を目撃しました。
ニュースでよく報じられていた「第18共徳丸」です。
そのときに感じたことを『陸(おか)の船』という題で曲を作りました。
気仙沼の人たちは、全国からの「頑張れコール」がプレッシャーになり、そうとう疲れてはりました。
「こんなに頑張っているのに、まだ頑張らなければいけないんですね」
そんな住民の声に対し、ぼくはこう答えました。
「大阪にはええ言葉がありますねん。『ぼちぼちと』……。この『ぼちぼち』がええ塩梅なんですよ。ぼくは『頑張ろう』という言葉が嫌いですし」
すごく納得してくれはりました。
以降、ときどきライブでこの曲を披露してきましたが、4月18日の第10回目記念ビッグライブでは、今まで以上に心を込めて歌おうと思っています。
第18共徳丸は2013年秋、解体されました。
しかし、ぼくの想いは変わっていません。
犠牲になられた方、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
そして被害に遭われた方、一日でも早く、被災地が完全に復興しますように!
陸(おか)の船
陸でもがく船たちの うめき声が胸を突く
人気のない荒れ地には 言葉を失った
なにができるんやろ I don’t know what to do.
ただひとつ、思ったこと それは 決して忘れまいと この土の匂いを
ひたむきに生きる人たち 元の街に戻そうと
未来を信じて ぼちぼちと そう、ぼちぼちと
なにができるんやろ I don’t know what to do.
ただひとつ、思ったこと それは 決して忘れまいと この土の色を
ひたむきに生きる人たち 陸の船を戻そうと
笑顔を忘れず ぼちぼちと そう、ぼちぼちと