今日は、阪神・淡路大震災からちょうど20年。
ぼくが40歳のときです。
地震が起きた1月17日は、大阪市内の自宅マンションでもかなり揺れ、棚からウイスキーのボトルがなだれ落ち、足を負傷しました。
結構、出血しました。
そのため新聞社(読売新聞大阪本社)に出社できず、終日、悔しい思いをしながら、被災地の惨状をテレビで眺めていました。
なにせ文化部とはいえ、新聞記者でしたから、現場に行きたくて行きたくて仕方がなかった。
翌日から患部に包帯を巻いて出社。
数日後、朝刊の一面連載の取材班が組まれ、ぼくが文化部の代表としてそのチームに入りました。
本当は先輩記者が行くはずでしたが、その方の体調がすぐれず、ぼくに白羽の矢が当たったのです。
連日、被災地を訪れ、数えきれないほどの被災者の方々や関係者に取材しました。
避難先の寒い体育館で震えている人、
「まるで幻を見ているように阪神高速道路が倒壊した」と証言してくれた人、
「さっきまで家族の団らんがあったのに、今はぼくひとり……」とつぶやいた男の子、
液状化現象で道路から水が吹き出し、足止めをくった消防隊員
犯罪かどうか、死因の究明に没頭する神戸大学医学部解剖学教室のスタッフ、
「防災対策の根幹から考え直さないといけない」と自戒をこめて話してくれた学者、
棺桶作りに振り回された業者、
何とか水道水を確保せねばならないと奮闘した神戸市水道局のスタッフ、
被災者の受け入れに四苦八苦した寺院、
その日に誕生した新しい命を取り上げた医療スタッフ……。
取材した人たちはすべて鮮明に覚えています。
どちらかと言えば、ストレート・ニュースではなく、ちょっと埋もれた話題に焦点を絞って取材していたと思います。
久しぶりの「現場」!!
これが新聞記者なんやと、ぼくはずっと興奮していました。
その連載の最中、フットワークの軽さを評価され(?)、人事異動の発令。
会社としては「よかれ」と思ってのことだったのでしょう。
でも、ぼくはとことん文化部を愛しており、地震の連載が終わったら、映画・音楽などの分野でいろいろやりたいことがあったのです。
入社後、京都支局から、ぼくにとってはまったく異質な(向いていない?)科学部に所属し、11年間、そこで辛苦の日々を過ごした末にようやく念願叶って入った文化部。
ほんまに水が合いました!!
だから、給料を半分にしてもらってもいいから、文化部に残してほしい!!
そう会社側に伝えたのですが、いったん決まったことは無理と言われ……。
で、その時、ふと思ったのです。
今、独立できるんとちゃうやろかと。
映画、ケルト文化、洋酒。
自分の好きな、かつ執筆テーマとなるものが鮮明に浮かび上がり、即座に辞表を書きました。
幸い、穏便に退職でき、その時(1995年)の5月末付で17年間、在籍した読売新聞大阪本社を辞めました。
そして今があります。
フリーの物書きになって20年。
今でも、飽きずに(愚直に?)あの時に思い描いたテーマを追い続けています。
この震災で亡くなられた6434人の方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。
そしてぼくの人生を変えた惨禍をいろんな意味で、感慨深くとらえています。
とにかく、一生、阪神・淡路大震災を忘れないでおこう!!
もちろん、東日本大震災やその他多くの自然災害についても……。
それしかぼくにはできないから。