新年早々、興味深い映画が公開されます。
この手の映画には弱いです。
もう一度、見に行くつもり。
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「ハムレット」や「ロミオとジュリエット」などシェイクスピアの戯曲は別人が創作していた!
あゝ、何という魅惑的な物語。
16世紀末の英国エリザベス朝の息吹を充満させた濃厚な歴史ミステリー。
伝記資料の乏しさから、シェイクスピア別人説がいくつも提唱されている。
その中の最有力説を大胆に解釈したのが本作である。
監督は『インデペンデンス・デイ』(1996年)などの大作を手がけたローランド・エメリッヒ。
この人がシェイクスピア物を撮るなんて本当に驚きだ。
映画の前段で、早くも正体が明かされる。
ミステリーの定石をくつがえす意外な展開。
この映画は、なぜその人物が身を隠さねばならなかったのか、謎解きよりも、その点に主眼を置いていた。
背景となるのが王位継承問題。
未婚を貫いたエリザベス女王(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)の跡継ぎをめぐり、宰相セシル(デヴィッド・シューリス)の親子とオックスフォード伯(リス・エヴァンス)の一派が対立する。
さらに女王の若かりし頃の恋愛譚が加味され、それがキーポイントになる。
演劇の世界だけに留まらず、話がどんどん広がっていく。
そこがたまらなく面白い。
もちろんシェイクスピア本人(レイフ・スポール)も登場する。
この男がいかにして名声を得たか、その過程も描かれるが、あくまでも脇筋にしかすぎない。
非常に重層的な構成だ。
当然、情報量が多く、人物関係もやや複雑。
それでもしかし、知的好奇心が刺激され、最後まで観させる。
蝋燭の炎を生かした室内、雑然とした雰囲気の芝居小屋……。
細部にこだわった演出と完璧な時代考証にうならされ、エメリッヒ監督の別の一面を見せつけられた。
欲と陰謀にまみれた人間ドラマ。
見事に辻褄が合う。
改めてシェイクスピアの戯曲を読みたくなった。
2時間9分
★★★★(見逃せない)
☆12日(土)より、TOHOシネマズ梅田/TOHOシネマズなんば/TOHOシネマズ二条/TOHOシネマズ西宮OS/シネ・リーブル神戸にて公開
(日本経済新聞2013年1月4日夕刊『シネマ万華鏡』。ブログへの掲載を許諾済み。無断転載禁止)
もっと詳しく書いたエッセーがあります。
余力のある人はどうぞ。
かなり長いですよ(^o^)v
覚悟してくださいね(笑)。
でも、解説として読み応えはあると思います(自画自賛するなっちゅうねん!!)
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昨今、歴史が見直されているというか、定説がつぎつぎと覆されてきている。
ひと昔前まで教科書に載っていたことが否定されているのだから、正直、とまどいもある。
例えば、憲法十七条や冠位十二階を制定した聖徳太子。
現在、そういう人物は実在しなかった、ということになっている。
かつて1万円札に肖像が印刷されていたあの御仁が……。
「ほんなら、あれは誰やねん」と突っ込みを入れたくなる。
海外に目を向けると、聖徳大使とおなじくらい日本でも知られているイギリスの劇作家ウィリアム・シェイクスピア(1564?~1616年)も実はいなかったという説がある。
いや、正確に言えば、ひじょうに文才のある別人、あるいは作家集団がシェイクスピアというペンネームを使って、『ハムレット』、『ロミオとジュリエット』、『リア王』など超有名な戯曲を発表していたのではないかと。
いわゆる、「シェイクスピア別人説」。
これは以前からぼくも知っていた。
同世代の作家クリストファー・マーロウ、哲学者で政治家でもあったフランシスコ・ベーコン、外交官のヘンリー・ネヴィル……。
複数の人物が「隠れシェイクスピア」として名前が挙がっている。
英文学の王道を築いた偉人とあって、そんなアホなことあるかいと一蹴していたけれど、よくよく調べると、さもありなんと思わせる。
本作は、そこに切り込んだ映画である。
『もうひとりのシェイクスピア』という邦題がなかなか冴えている。
文学や歴史に関心を持たずとも、ミステリーの香りが匂い立ち、無性に観たくなってしまう。
しかも監督が、『インデペンデンス・デイ』(1996年)、『デイ・アフター・トゥモロー』(2004年)、『2012』(2009年)といった大作を手がけてきたローランド・エメリッヒ。
興味がそそられないはずがない。
シェイクスピアとエメリッヒ。
絶対に結びつかない取り合わせだ。
16世紀のイングランドの歴史物を、この監督がちゃんと撮れるのか、突拍子もない虚構の世界を構築するのではないか、はたまたアクション仕立てにするのでは……。
実はかなり心配していた。
でも、杞憂に終わった。
ドラマ性、ストーリー展開、時代考証など作品のすべてにおいてほぼ満足のいく出来に仕上がっている。
プレスシート(マスコミ向け資料)には、10年以上も温めてきた構想だと書かれている。
なるほど、確固たる視点で歴史を見据え、そこに娯楽風味を加え、シェイクスピアの実像に迫っていた。
歴史物、ミステリー、エンターテインメント。
それらがほどよくミックスされている。
とにかく徹底的に調べており、つじつまが合うようになっている。
この映画には原作はない。
オリジナル脚本だ。
マイケル・ウインターボトム監督の『マイティ・ハート/愛と絆』(07年)などに携わったジョン・オーロフというシナリオ・ライターの手によるもの。
驚くべき執念と論理的な頭脳で書き上げたのがよくわかる。
本作に触れる前に、「シェイクスピア別人説」が生まれた理由を含め、この稀代の劇作家について簡単に説明しておきたい。
超有名な割には伝記的資料が極端に少なく、生涯についてもナゾが多いが、通説によれば(教科書的に言えば)、こうなる。
イングランドの田舎町ストラッドフォード・アポン・エイボンで、富裕ななめし革商の長男として生まれ、地元のグラマースクール(中等教育機関)で学んだ。
しかし父の経済的没落により中途退学。
18歳のとき、8歳年上の女性と結婚し、男と女の双子をもうけた。
やがてロンドンに出て演劇の世界に入る。
そして下積みの役者生活を経て、26歳のころから劇作家になった。
以降、20余年間にわたり戯曲37作、詩7編、ソネット(14行詩)154編を著した。
さらに劇団の幹部として、またグローブ座など芝居小屋の株主として財を成し、恵まれた晩年を過ごした。
世に放った作品はどれも普遍性をもち、世代と国を越えて愛され続けている。
ざっとこんな具合だが、どうも合点がいかない。
自筆とされる原稿が残っておらず、海外を訪れた経験がないのに、『ベニスの商人』、『ロミオとジュリエット』、『ハムレット』といった外国を舞台にした作品が多い。
さらにそれほど深い教養を身につけられる境遇ではなかったのに、驚くほどの博識ぶりと文才を見せた。
だから、別人説が提唱されてもおかしくはない。
かく言うぼくもそれに賛同している。
この映画では、一番、得心のいく説を取り上げている。
ここで筆が止まった。
種明かしはタブーなので、正体を明かせないからだ(チラシにはその人物の名前が書かれているけれど)。
専門家には周知のことだが、大半の人は知らない。
ぼくもこの人物について薄っすらと知っているだけ。
なので、「以下の文章は、映画を観てから読んでいただきたい」と但し書きをつけようと考えたが、そんな書き方はどうも好きではない。
あゝ、難しい。
こういう場合、開き直って周辺のことに言及するしかない。
映画はいきなりエリザベス朝のロンドンに引き込むのではなく、まず現代ニューヨークのブロードウェイの劇場を映し出す。
出し物は『ANONYMOUS』。
「匿名の」という意味で、本作の原題にもなっている。
意味深なタイトルだ。
その劇場のステージでイギリスの有名なシェイクスピア俳優デレク・ジャコビが観客に向かって、「シェイクスピアは実は……」と語り始め、やがて私たちを400余年前の世界へと誘う。
なかなか趣向の凝ったプロローグだと思う。
さて、本筋である。
ミステリーの定石として実像・正体は徐々に暴かれていくものと思いきや、そうではなかった。
前半の早い段階から、シェイクスピアの作品を創作した人物が明かされる。
いきなりではない。
ゆるりゆるりとした流れに乗って、本物の劇作家がクローズアップされていく。
もちろんウィリアム・シェイクスピア(レイフ・スポール)なる若者も出てくる。
どうしてその男が「シェイクスピア」となっていったのか、その過程も浮き彫りにされる。
映画の進行具合は、池に小石を投げ込み、水の輪が自然と広がっていく、そんなふうなのだ。
キーパーソンはいる。ベン・ジョンソン(セバスチャン・アルメストロ)という実在していた劇作家。
桂冠詩人になったというが、あまり知られていない。
この人物こそ、「シェイクスピア」を作り上げた張本人で、ドラマの狂言回し的な役割を演じている。
史実として、ジョンソンが映画で描かれているような画策をしたのかどうか、そこのところが気になるが、まぁ、こんな展開があってもいいのではないか。
さらに面白いのは、「シェイスクピア」として有名になった男(つまりシェイクスピア本人)も決して主役級にならないことだ。
不埒で軽薄な人物で、字もろくに読めない。
『アマデウス』(1984年)で映し出された下世話な神童モーツァルトとどこか似通っていた。
しかるにモーツァルトは天才的な作曲能力があったが、こちらは凡人極まりない。
おっと、忘れてはならない主要人物がいる。
イングランドの絶対王政を築いた君主エリザベス1世(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)だ。
歴史大作『エリザベス』(1998年)、『エリザベス ゴールデンエイジ』(2007年)で描かれたストイックな女王とは異なり、ここではひじょうに人間味あふれたひょうきんな一面を覗かせる。
どこか可愛らしいおばあちゃんといった感じ。
「ヴァージン・クイーン」と呼ばれ、生涯、独身を貫いたが、実は何人もの愛人を抱え、隠し子もいるというところが本作のミソ。
しかも演劇が大好きときている。
堅物の宰相ウィリアム・セシル(デヴィッド・シューリス)は、大衆を容易に扇動できる芝居の怖さを見抜いており、異常なほど演劇を忌み嫌う。
セシルの息子ロバート(エドワード・ホッグ)ともども親子で陰湿な匂いをまき散らす。
彼らは表面的にはエリザベス1世に忠誠を誓いながらも、裏では反女王の動きを見せる。
女王が出てくれば、当然、政治的な動きがバックグランドとして描かれる。
そこのところをある程度、知っていないと、映画の面白さが伝わらないかもしれない。
ただ、当時のイングランドの歴史は実にややこしい。
複雑なベールを剥ぎ取れば、ポイントは王位継承問題になる。
エリザベス1世には公的に子がいないことになっている。
なので女王が死去すれば、誰がイングランドの王位を継ぐのか、そこが最大の懸念だった。
女王と縁のある者を推す一派と敵対するスコットランドの国王ジェームズ6世を招こうとする一派がぶつかり合う。
史実では、ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として君臨する。
前者の代表格はオックスフォード伯エドワード・ド・ヴィア(リス・エヴァンス)、後者がセシル親子。
つまり、王位継承をめぐる対立が、「シェイクスピア別人説」と平行してあぶり出されていく。
歴史の大きな流れを絡ませると、ドラマが一段と深みを増す。
そのことを本作は見事に証明した。
しかも女王の若かりしころの恋愛が尾を引く。
恋人がオックスフォード伯。
2人の結びつきが映画の核心部分になっている。
つまり愛と陰謀の土壌から、「シェイクスピア」の作品が必然の賜物として開花していくのだ。
真の劇作家が自分の正体を明かせないもどかしさが痛いほどよくわかる。
あゝ、何と重層的な構成。
酔いしれてしまう。
エメリッヒ監督の演出はこだわっていた。
時代考証がほぼ完ぺきで、いかにエリザベス朝を読み解いているのかがわかる。
前述した『エリザベス』、『エリザベス ゴールデンエイジ』、さらに『恋におちたシェイクスピア』(98年)など同時代を舞台にした作品に比べ、はるかに濃密さが感じられた。
しかし難点がある。
人物の相関関係がやたら複雑で、途中までそれを理解するのに手こずってしまう。
横文字の名前がきちんと頭に入るには本当に時間がかかる。
そのうえエリザベス女王の若いころの語が頻繁に映し出され、最初のうち話がこんがらがってしまった。
このフラッシュバック、なかなか呑み込みにくい。
それでもこの映画は観させる。
たまらなく知的好奇心がくすぐられ、全て納得させるパワーがある。
帰宅し、シェイクスピアの作品をパラパラと見て、思わずほくそ笑んでしまった。
そしてエメリッヒ監督に対する見方が変わった。
とことん理詰めで攻める演出に敬意を表したい。
(全大阪映画サークル協議会の機関紙2012年12月15日号に掲載分)