「焼夷弾が雨あられのように降り注ぎ、あわてて子たちと一緒に防空壕へ走った。空襲が終わり、外に出たら、町がほとんど焼かれていて一変してた。焼死しはった人もぎょうさんいた。女学校(現在の清水谷高校)に爆弾が落ち、何人か亡くなったんや」
「防空壕で亡くなった人がぎょうさんいたから、次の空襲では上六まで駆けつけ、百貨店(現在の近鉄百貨店上本町店)へ逃げ込んだ。ホンマに怖かった」
ぼくが大学1年の時、83歳で亡くなった祖母が、晩年になって時々、思い出したように戦時中の話を喋ってくれました。
長いこと同居してましたから。
祖父とは昭和4年に死別しており、オヤジさんと長兄は出征していたので、祖母が3人の子と清水谷高校近くの長屋(大阪市中央区)で暮らしていたそうです。
戦後、復員してきた父と兄が働き手となり、祖母もいろんな仕事に就き、一家5人が一丸となって厳しい生活を乗り越えていきました。
敗戦75年目の今日、気丈な明治女のおばあちゃんのことがふと思い出されました。
