ちょかBandファーストライブの義援金4万円+その他カンパ、計5万円を携えて、1泊2日で宮城・気仙沼へ行ってきました。
相方の疋田さんは仕事があるので、一人旅です。
昨日(25日)の昼前、大阪空港(伊丹)から空路で仙台空港へ。
海辺の近くにある空港に着陸前、かつて民家が立ち並んでいたであろう所がすべてさら地になっているのを目にし、ア然としました。
昼食は空港内の牛タン専門店で、牛タン・ヌードルをいただきました。
出汁がテールスープとあって、しびれるほど美味かった~!
満足感を抱きつつ、仙台空港アクセス鉄道でひとまず仙台駅へ。
クリスマスの日曜日なので、大阪駅並みにえらい混雑でした。
仙台駅からJR東北新幹線のやまびこで一ノ関へ向かい、そこから大船渡線に乗り換え。
いかにもローカル線といった佇まいです。
2両編成のディーゼル列車に揺られて、午後5時25分、ようやく気仙沼に到着しました。
大阪からだと、えらい時間がかかりますわ。
駅前は閑散としていました。
クリスマスというのに、イルミネーションもなくて……。
節電が徹底されているようで、街が暗い。
何だか最果ての地に来た、そんなうら寂しい気持ちになりました。
駅前のホテルにチェックイン。
震災後、ホテルが軒並み全壊したり、閉鎖されたりして、気仙沼の宿泊事情は極めて悪いです。
早めにネットで予約しておいて、ほんまよかった。
ホテル内のレストランは休業中で、ホテルのスタッフに教えてもらった寿司屋に足を運びました。
日が落ちると、猛烈に寒い。
氷点下5度くらい。
路面が凍結しています。
身体をぶるぶる震えさせながら、目的の寿司屋に入ると、満席状態。
ガーン~(*_*)
「すんません。座れません。ごめんなさいね」
お店の人もお客さんもぼくを気の毒がっていました。
「いいですよ。他を当たります」
諦めて別の店を探すも、食べ物屋らしい店が見当たらない。
こうなりゃ、コンビニ弁当でも買って、ホテルで食べるしかない。
そう腹をくくった時、居酒屋の看板が前方に見えてきました。
涙がこぼれるほどうれしかった~!
「旬の料理とすしの店~地物屋たにぐち」というお店。
どういうわけか、客が誰もいない……。
評判の悪い店なのかと勘繰ったが、大阪から来たと言うと、美人の女将さんがとても愛想よく応対してくれました。
平目の造り、白子、鶏のロースト。
どれも舌がとろけるほどの美味で、熱燗のペースが速まるばかり。
サメの心臓という珍味も。
こりこりしていて、独特な食感でした。
「あんまりがんばってばかりだと、身体がもちませんよ。ぼちぼちやってください」
ほろ酔い気分で、つい口からそんな言葉が飛び出しました。
すると、女将さんは「本当にその通りですよね。疲れがたまって仕方がないです。大阪弁のぼちぼちでやっていきます」
港近くにあった以前の店は津波でそっくり流され、最近、居酒屋だったここで再スタートを図ったとか。
板前の大将(ご主人)は神戸出身の大柄な人でした。
実に仲のいいご夫婦。
末永く、この店を続けてほしいと思いました。
そして、ライブの義援金を届けに来たと告げると、「遠路はるばる、ありがとうございます」と深々とお辞儀してくれました。
「どうして気仙沼なんですか~?」
女将さんはキョトンとしてはりました。
話は今年8月のポーランド旅行にさかのぼります。
巨匠アンジェイ・ワイダ監督の作品の舞台を巡っていたら、古都クラクフの日本美術・技術センターで、奇跡的にワイダ監督ご本人と出会え、しかもインタビューまでできました。
このことはブログで詳しくリポートしましたね。
そのとき運命の邂逅の場となった日本美術・技術センターが、気仙沼青年会議所と深い関わりのあることを知ったんです。
1997年には、青年会議所が同センターに鯉のぼりをプレゼントしたりしているんです。
そして今回のファーストライブ。
義援金をどこに届けようかと考えていたら、突然、クラクフのことを思い出し、気仙沼青年会議所に直接、届けにいこうと思ったのでした。
何しろ東北地方とは縁もゆかりもありませんから。
日本赤十字や新聞社の事業団に託してもよかったのですが、まだ一度も被災地を訪れていないので、この機会に現地の状況を見てこようと思いました。
こうしたいきさつを女将さん相手にベラベラしゃべっていると、後ろの座敷席にいる年配の紳士から、一緒に飲みませんかと誘われました。
生駒正行さんという方。
あとでわかりましたが、大手保険会社の会長を勤めてはったとか。
そして向かいに座っていた男性が、陶芸家の坂田甚内さん。
かなり著名な御仁らしい。
大英博物館ヤロックフェラー財団などがパブリックコレクションとして甚内先生の作品を所蔵しているそうです。
ちゃきちゃきの江戸っ子で、栃木で創作活動に励んではります。
めちゃめちゃパワフルで面白い。
「どうしてケルトの渦巻きは右回りなんだい?」
ぼくがケルト文化にはまっていると言うと、いきなりこんな質問を投げかけてきはりましたわ。
まさに芸術家といった感性の持ち主です。
向こうはぼくのことを面白がって、ケラケラ笑っておられましたが(笑)
甚内先生が創られたおちょこで日本酒を酌み交わし、ワイワイと話が弾み、気がつけば、タコのように顔が真っ赤~!
「この店か大阪で再会しましょう」
そう言い合って、お開き。
店を出る前、記念撮影しました(甚内先生は先に帰られたので、映っていません)。
ホテルまで、生駒さんがタクシーで送ってくださって、ありがとうございます。
翌朝、気仙沼は快晴。
あれだけ飲んだのに、頭も快晴~(笑)
よほどいいお酒やったんですね。
チェックアウトして、喫茶店でモーニングをと思ったら、どこも営業が10時から。
アンビリーバブル~!!
仕方なく朝食抜きで青年会議所の事務所へ足を運びました。
理事長の藤田雄一郎さんはがたいのいい38歳の男性。
震災直後、港に面する実家兼商店(漁船に食糧を納品する仕事)が津波に襲われ、間一髪、家族そろって屋上に駆け登り、難を免れたそうです。
義援金を手渡すと、すごく恐縮され、大きな身体を縮ませてはりました。
「皆さんが震災・津波のことを忘れず、こうして支援してくださるのがうれしくてなりません。大阪から、本当にありがとうございます!」
あゝ、ライブをやってよかった。
心底、そう思いました。
ぼくが本物のミュージシャンでないのを知って、藤田さんは安堵してはりましたが(笑)
小1時間、被災と復興の状況を教えてもらい、固く握手して別れを告げました。
このあと、気仙沼の街を視察しました。
テレビのニュースでよく映っていた<陸に上げられた漁船>は、震災から9か月経った今もそのまま放置されていました。
他にも数船が無残に転がっています。
海から2キロほど離れているというのに……。
津波はすべてを呑み込んで、さらっていきます。
すさまじい破壊力。
想像以上でした。
壊れた建物もいっぱい残っています。
正直、復興にはまだまだ時間がかかるという印象を受けました。
炊き出しをするテント、そして仮設住宅。
阪神・淡路大震災の光景とだぶってしかたがなかった。
お昼は、おとついオープンしたばかりの仮設商店街の喫茶店で、チャーハンを食べました。
のぼりには「復興商店街」の文字。
思わず笑みがこぼれました。
チャーハン、美味かった!
「繁盛していて、よろしいですね」
店主のおじさんに声をかけたら、「はい、一から出直すしかないです」。
大阪から来たと言うと、こんどはおばさんが笑顔でこう返してくれました。
「大阪の人の元気をいっぱいもらいますよ。関西の人って、元気があるから」
そう、ぼくは気仙沼に元気を届けに来たんだ!!
そんな気がしてきました。
漁業関係の仕事が激減し、職を求めて、街を去る人があとを絶ちません。
7万3000人あった人口が、震災後、6万人台に減りました。
「出て行った人に戻ってきてほしい」
「活力がなくなるのが一番、こわい」
「原発問題が注目され、地震・津波のことが忘れられているような気もします」
あちこちでそんな切なる声が聞かれました。
街中には「がんばれ!」という文字が目につきます。
でも、昨夜、女将さんに言ったように、あんまりがんばりすぎると、エネルギーが切れてしまいます。
焦らず、復興実現のため、ぼちぼちがんばってほしいと思います。
また、大阪から元気を届けにいきますから!!
被災者のために何ができるのか。
震災後、ずっと考えていたことです。
仕事を抱えている身、若者たちのようにボランティアとして現地で汗を流すことができなかった。
せめて義援金や衣服の提供くらいでしかサポートできない。
でも、それでいいと思う。
とにかく忘れないこと、自分の心の中で大震災を風化させないこと。
そして現地にお金を落としていく。
少し落ち着いた今こそ、観光で被災地を訪れ、地元の人たちと触れ合い、現状を瞼に焼き付ける。
開き直りではなく、それでいいと思う。
こちらも無理したらあかん。
「気仙沼でどんどんお金を使ってください」
喫茶店のご主人が冗談まじりで言っていましたが、その通りだと思います。
今度、この街を訪れるとき、今回以上に「元気」を持っていこうと決めました。
そのためにも、日々、できるだけ楽しく生きたいと思いました。
宮城・気仙沼リポート
投稿日:2011年12月27日 更新日:
執筆者:admin