武部好伸公式Blog/酒と映画と旅の日々

ケルト文化に魅せられ、世界中を旅するエッセイスト・作家、武部好伸。映画と音楽をこよなく愛する“酒好き”男の日記。

ポーランド紀行(2011年夏)

ポーランド紀行(6)~アウシュビッツ&ビルケナウ強制・絶滅収容所

投稿日:2011年8月20日 更新日:

ポーランド紀行の6回目は、人類にとってとんでもない「負の遺産」のリポートです。
はっきり言って、見るのに覚悟が要りますが、目をそむけず、写真を見入ってほしいと願っています。
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古都クラクフからバスに揺られ、1時間半ほどでアウシュビッツに到着しました。
ポーランドではオシフィエンチムと言います。
時折、小雨がぱらつく陰鬱な天気。
アウシュビッツ収容所から発せられる重い空気をそのまま反映させたような空模様でした。
第2次大戦勃発の翌年、1940年、ポーランドを占領していたナチス・ドイツがポーランド軍の基地だったこの地を強制収容所に改修しました。
当初はポーランド人の政治犯(反ナチス活動家)を収容していましたが、独ソ戦が始まってから、ソ連軍の捕虜やロマ(ジプシー)を送り込み、42年からユダヤ人の絶滅センターとして機能しました。
これはロマの人たちです。
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非ユダヤ人であっても、ナチス占領地区の障害者や同性愛者らも収容されました。
強制収容所は、ヒトラー直属の親衛隊(SS)の管轄下にありました。
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配置図を見ると、それほど大きくはありません。
実はアウシュビッツ収容所はここだけではなく、3か所あったんです。
ここが第1収容所(本収容所)で、最大2万人を収容していました。
第2収容所が、北へ3キロ離れたビルケナウ収容所(ポーランドではブジェジンカ)。
このあと訪れます。
そして第3収容所が、ここから南6キロのモノビツェ収容所です。
その他、周辺に副収容所が47か所もあったといわれています。
これらを合わせてアウシュビッツ収容所と呼ばれているわけです。
ここ第1収容所と第2収容所が博物館として保存されており、79年にユネスコの世界遺産に登録されました。
正門で、あの有名な文言が目に飛び込んできました。
「ARBEIT MACHT FREI(働けば、自由を得られる)」
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これをだれが信じたのでしょう。
今回の写真は全体的に暗いトーンです。
雨雲が覆い、紫外線量がかなり少なかったせいですが、犠牲者の御霊の影響もあるのではと、今、思っています。
敷地内に足を踏み入れると、体がこわばってしまいました。
映画のセットのようにも見えましたが、ここで想像もできない蛮行、虐待、処刑が日常的に行われていたと思うと、居たたまれなくなるのでした。
いろんな角度から写真を撮りました。
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ナチス・ドイツが42年に「ユダヤ人問題の最終的解決」を宣言します。
つまり絶滅(ホロコースト)、民族の完全浄化です。
それに伴って、本国ドイツをはじめ、ポーランド、チェコ、オランダ、イタリア、ノルウェーなど占領地や同盟国に89か所の強制収容所が設立され、計600万人のユダヤ人が犠牲になりました。
あまりにも数が多くて、ピンときませんが、アイルランドの人口が450万人ですから、ひとつの国が消滅したといえる規模です。
数ある収容所の中でもアウシュビッツは、労働よりも絶滅を主眼にしていたので、後世に名が残ったのです。
150万人の命がここで失われたといわれています。
そのうちポーランドのユダヤ人が30万人でした。
一番多かったのがハンガリーのユダヤ人で、43万人もいました。
あとフランス(6万9000人)、オランダ(6万人)、ギリシア(5万5000人)……と続きます。
彼らは、劣悪という言葉では説明できないほど厳しい環境の中で暮らしていました。
このベッドに5~6人が一緒になって寝ていたらしいです。
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ガス室です。
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シャワーを浴びせるといって、この部屋に集団で入れ、チクロンBという毒ガスで殺していたのです。
これがチクロンB。
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チクロンBの空き缶。
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この毒ガスを最初に使ったのはソ連軍の捕虜でした。
ナチス・ドイツはスラブ人も下等民族とみなし、しかもロシア人は憎むべき共産主義者とあって、ユダヤ人並の扱いをしていたそうです。
ガス室は焼却炉を併設していました。
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毎日、煙が立ち上っていました。
それを見て、収容されている人たちはどう思っていたのでしょうか……。
ガス室と焼却炉の外観です。
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1945年1月27日、ソ連軍がアウシュビッツ収容所にやって来たとき、7000人のユダヤ人が生き延びていたそうです。
ソ連兵がガス室を発見したとき、いったい何のために使われていたのかわからなかったといわれています。
まさか人間を大量に殺戮していたとは……。
ガス室以外でも、反抗した者や親衛隊の気にくわなかった者らが、いとも簡単に処刑されていました。
脱走を試みると、同じ部屋にいた人間を皆殺しにしました(連座制)。
これは「死の壁」、銃殺の場でした。
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絞首刑も、見せしめで行われていました。
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この狭いスペースに4~5人立たせたまま3日ほど放置するという刑もあったそうです。
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他に何日も飲食物を与えない飢餓刑も行われていました。
犠牲者たちの遺品の数々。
トランクです。
ここに運ばれてきた途端、没収されました。
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靴と義足。
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これは女性の髪の毛……、あまりの衝撃でカメラがぶれてしまいました。
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涙が出るものとばかり思っていましたが、とにかく想像以上に強烈だったので、むしろ放心状態になりました。
と同時に、有能なドイツ人がなぜこんなアホなことをやってしまったのかと大きな疑問符が頭の中に浮かんできました。
ここまで人間を虫けら同然に扱えるものなのか……。
収容所を見学していると、イスラエルから来たユダヤ人の青年グループを目にしました。
イスラエル国旗を羽織って……。
みな無言でした。
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ガイド役のポーランド人青年によると、ドイツの高校では修学旅行などでここを訪れる者が少なくないそうです。
夏休みの間、収容所の補修工事のボランティアに励むドイツの大学生もいるらしいです。
第1収容所の見学を終え、重い気持ちを抱いたまま、第2収容所のビルケナウへ向かいました。
こちらはでっかい!!
甲子園球場の20倍ほどの大きさ。
9万人も収容でき、ナチスの収容所の中では最大規模でした。
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引込み線の向こうに監視塔が建っています。
ホロコーストの全貌に迫ったフランスの映像作家・ジャーナリスト、クロード・ランズマンの長編ドキュメンタリー映画『ショアー』(1985年)で象徴的に映されていた光景です。
『シンドラーのリスト』もここで撮影されています。
ヨーロッパ各地からユダヤ人が貨物列車で運ばれてくると、親衛隊の医師によって選別されました。
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まだ体力の残っている男は、とりあえず収容所へ。
余力のない男、女性、子供、老人、病人、障害者はそのままガス室行きでした。
ここは100%絶滅収容所。
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移送された人たちを、ガス室に連れて行くまでに収容した建物の中です。
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ここのガス室は第1収容所のものに比べてはるかに大きかった。
しかしソ連軍が来る前、親衛隊が犯罪隠蔽のために破壊しました。
あえて66年前のまま残してあります。
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ユダヤ人たちが吟じる鎮魂歌が耳から離れません。
ぼくにはお経のように聞こえました。
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破壊される前のガス室の全景と焼却炉です。
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慰霊碑には各国の言葉で哀悼を示す文言が書かれていました。
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ふたつの収容所を見たあと、正直、頭が真っ白になりました。
思考力ゼロ。
こんな経験、初めてでした。
今、こうして原稿を書いていても、まだ考えがまとまりません。
ただ、人間というものは、状況次第で人間でなくなってしまう。
そういう生き物なんだと痛感しました。
ホロコーストに関しては、戦争うんぬんだけで語れないということもわかってきました。
人間の本質に関わる問題……。
疲れました。
ここで止めておきます。

-ポーランド紀行(2011年夏)

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武部好伸(タケベ・ヨシノブ)
1954年、大阪生まれ。大阪大学文学部美学科卒。元読売新聞大阪本社記者。映画、ケルト文化、洋酒をテーマに執筆活動に励む。日本ペンクラブ会員。関西大学非常勤講師。