Category Archive: エッセー

5月 31

エッセイ~『上町台地をゆく(前編)~ママチャリで北から南へ縦断~』

大阪メトロのアプリ「Otomo!」で、隔月連載しているエッセイ『大阪ストーリー』。

先日、最新記事がアップされました。

テーマは『上町台地をゆく(前編)~ママチャリで北から南へ縦断~』。

ぼくの生まれ育ったところが、もろに「大阪の背骨」といわれる上町台地です。

新コロナ禍でややこしくなる前に愛車のママチャリで縦断しました。

前編が大阪城から生國魂神社(いくたまさん)まで。

後編が、生國魂神社からゴール地点の住吉大社(すみよっさん)です。

アプリを入れておられない方のために全文を掲載します。

3月 25

大阪弁……、やっぱ好きゃねん!

大阪メトロのアプリ「Otomo!」で連載している「大阪ストーリー」。

本日、新しいエッセイがアップされました。

タイトルは『大阪弁……、やっぱ好きゃねん!』

そのアプリを持っていない方のために全文を掲載します。

ご笑覧くださいませ~(^_-)-☆

1月 23

大阪市内で漁業!?

昨日、Osaka Metroのアプリ「Otomo!」で連載エッセイ「大阪ストーリー」がアップされました。

以下、全文です。

10月 19

エッセイ『なにわ、橋尽くし』

大阪市内の「橋」に絡んだエッセイを、大阪メトロのアプリ「Otomo!」で連載している前回の「大阪ストーリー」でエッセイとして書かせてもらっています。

ここに一挙、公開します。

10月 04

実は……、身近な上方伝統芸能~(^_-)-☆

大阪メトロのアプリ「Otomo!」で2か月に一度、「大阪ストーリー」というエッセイを連載しています。

現在、アップされているのが『実は……、身近な上方伝統芸能』。

アプリを利用されていない人のために拙稿を掲載します。

4月 24

法善寺の〈ヒロイン〉、お福さん

インバウンド(訪日外国人)や国内観光客、もちろん大阪の人たちも含めて連日、賑っているミナミの街中で凛とした雰囲気をかもし出している、そんな異空間が法善寺横丁だと思っています。浪花情緒とでも言いましょうか、レトロ感あふれる独特な風情がたまりません。路地(ろうじ)なのに、東京風に「横丁」としているのがなんとも面白い。

レトロ感が漂う法善寺横丁

Osaka Metroのなんば駅と日本橋駅のちょうど真ん中に位置しています。長さ80メートル、幅3メートルの小径が南北に2つ伸びているだけの狭いエリアに、居酒屋、小料理店、焼き鳥屋、串カツ屋、バーなどがひしめき合っています。古くからの暖簾を守っている老舗がまだ少なからずあるのがうれしいですね。明治時代には「紅梅亭」と「金沢亭」という2つの寄席小屋があったのだから驚きです。

ここに来ると、何はさておき法善寺の水掛不動さん(西向不動明王)にお詣りします。びっしり苔むしたお不動さんの顔、どんな表情だったのか、すっかり忘れてしまいました。その不動明王に水をかけ、縁結びと商売繁盛を祈願する人が絶えません。観光客の中には柏手を打ってはる人がいますが、ここはお宮さんとちゃいまっせ(笑)。

絵になる境内の入り口

参拝者が絶えない法善寺の境内

顔が判別できない苔むした水掛不動さん

法善寺横丁といえば、ちょっと古いですが、オダサクの愛称で知られる大阪生まれの大衆作家、織田作之助(1913~47)の代表小説『夫婦善哉』に登場するぜんざい屋を思い浮かべます。昭和30(1955)年に封切られた映画でもお店が出てきます。といっても、それは東京・砧の東宝撮影所のセットでしたが……。

同じ名前のその店は今、法善寺境内の南側にあります。しかし明治、大正を経て太平洋戦争で強制疎開するまで、北側の法善寺横丁と道頓堀に通じる、当時は極楽小路と名づけられた浮世小路の角に店がありました。

初代「めをとぜんざい」が店を構えていたところ

そこの飾り窓に大きなお多福人形が鎮座していたのです。大阪人はお多福のことを「おたやん」と言います。この店では親しみを込めて「お福さん」と呼ばれていました。まさに〈法善寺のシンボル〉。オダサクさんの随筆にもそう表現されています。今の小振りの「お福さん」は3代目です。

初代のぜんざい屋は明治16(1883)年、竹本琴太夫の芸名を持つ文楽の太夫、木(き)文字(もんじ)重兵衛さんが内職で創業しました。店のマスコットにと古道具屋でお多福人形を買い求め、お福さんにちなんで、店名を「お福」としたのですが、夫婦連れが多かったのか、いつしか「めをとぜんざい」の名で知られるようになりました。漢字ではなく、ひらがなというのが時代を感じさせますね。

ここからお福さんは実にドラマチックな人生を歩みます。法善寺の千日参りや寄席見物の人たちでぜんざい店は繁盛しました。ところが前述したように太平洋戦争時、強制疎開を余儀なくされ、木文字家の実家がある藤井寺の古室山(こむろやま)へ引っ越しました。

戦後、戎橋南詰でぜんざい屋を開いた人に貸し与えられましたが、すぐに店がつぶれ、再び木文字家の蔵へ。その後、ミナミの阪町で再興された「めをとぜんざい」を経て、法善寺境内の料亭で落ち着くも、昭和33(1958)年、三度、古室山へ引きこもってしまったのです。

このままずっと隠居生活が続くとお福さんは覚悟を決めました。ところが金融業者の手に渡り、のちに古物商に商売替えしてから、長らく上本町六丁目の店に飾られていたのです。なかなか買い手がつかなかった。それがミナミのてっちり店の創業者、青柳政二さんに買われ、あろうことか大阪から遠く離れた、北アルプスが望める新潟県境の富山県朝日町にある百(いっ)河豚(ぷく)美術館に展示されることになりました。

この美術館は古美術品収集家の青柳さんが昭和58(1983)年、ご自身の故郷に私財を投じて建てられたものです。「百河豚」とはフグを愛したこの人の号。日本と東洋の優れた陶芸品を多数収蔵していることで、マニアの間ではよく知られています。

一連の変遷を突き止めたぼくは無性にお福さんに会いたくなり、富山へ駆けつけました。彼女はぼくの顔を見るなり、「よぉ探し当ててくれはりましたなぁ」と笑顔で声をかけてくれました。頬が黒ずみ、松竹梅の絵柄をあしらった十二単(ひとえ)のうちかけも黒光りしていましたが、まだまだ現役といったたたずまい。室町時代の作ということですから、随分、齢を重ねてはるんですね。

笑顔で迎えてくれたお福さん

実は以前、木文字さんのひ孫さんからお誘いを受け、当時のぜんざいをご馳走になったことがあります。淡い黄土色をした2つの小鉢。そこにはひょうきんなお福さんの顔が描かれていました。その小鉢は貴重品ということで、ふつうのお椀でいただきました。小豆がやたらと多く、汁が透き通っています。それに白玉ではなく、小さめの角餅が2つ。驚くほど淡白な味で、甘さも控えめでした。

かつて「めをとぜんざい」で使われていた小鉢

角餅入りのぜんざい

「えらい上品な味やなぁ」

辛党のぼくでもあと4杯くらいはいけそうでした。オダサクさんもこのぜんざいを味わっていたのかと思うと、感無量になりました。

先日、法善寺を訪れ、水掛不動さんにお詣りしたあと、今のぜんざい屋の前に足を向けると、三代目のお福さんの声が聞こえてきました。

三代目のお福さん

「初代のお姐さん、元気でやってはりますかね。あのお方こそ、法善寺の〈ヒロイン〉でした」

12月 05

Otomo!「大阪ストーリー」のエッセー、『「昭和」の大阪へタイム・トラベル』

今回は身内話で申し訳ないのですが……。

13年前、85歳で黄泉の客人となった父親は、ぼくの生家でもある大阪市東区(現在の中央区)龍造寺町の長屋で印刷業を1人で営みながら、一時期、アマチュア・カメラマンとして大阪の街と人を活写していました。

撮影期間は昭和28年ごろから東京オリンピック開幕の昭和39年までの10余年間です。

現存する写真の中から30数点を、大阪市立中央図書館で『あゝ、懐かしの大阪~昭和30年代の息吹~』(9月21日~10月17日)と題して展示させていただきました。

その中でぼくのお気に入りの写真が3点あります。

そこに写された場所が現在、どうなっているのか。

それを知りたくて探訪してみました。

1つ目は、昭和28(1953)年に撮影された旧関西電力春日出第二発電所(此花区西九条)です。

安治川と六軒家川が交わるところに建っていた巨大な石油火力発電所。

天空に伸びる8本の煙突が際立っており、見ようによって本数が変わるので、「おばけ煙突」と呼ばれていました。

大正10(1922)年、大阪電灯会社が建設したこの発電所は昭和34(1959)年に運転停止となり、建物が撤去されました。

なので、ぼくの記憶にはありません。

写真は安治川をはさんで対岸の港区波除から撮影したものです。

発電所は圧倒的な存在感を見せていますね。

手前の船は安治川を運航していた「三丁目渡し(渡船)」です。

これは昭和64(1989)年に廃止されました。

撮影場所は写真の情報からすぐに特定できました。

Osaka Metro中央線の弁天町駅から国道43号線沿いに北上し、安治川大橋の手前を右折したところです。

撤去された発電所跡に新たな火力発電所が建造されたのですが、それも平成15(2003)年に取り壊され、今はホームセンターになっていました。

まさに隔世の感……。

かつての渡船乗り場が建設工事中だったのが残念でした。

2つ目は「おもちゃの町」として知られる松屋町(中央区)で、玩具と駄菓子を仕入れる人の様子をとらえた写真です。

「松屋町」を「まつやまち」と言う大阪人はいません。

「まっちゃまち」です!

撮影された昭和35(1960)年当時、駄菓子屋のおばちゃんは風呂敷包みを背負っていたんですね。

時代を感じさせられます。

コマ、塗り絵、スポンジ状のキングボール……、懐かしの品々に涙が出てきそうになります。


      

この場所がはっきりわかりません。

とりあえずOsaka Metro長堀鶴見緑地線の松屋町駅で下車し、松屋町筋の西側舗道を北へ向かいました。

人形、スポーツ用品、花火、玩具の店が軒を連ねています。

300メートルほど歩いたところにレトロな雰囲気の玩具・お菓子店があり、心がときめきました。

   
「まだこんな店があるんや!」

この辺り、ぼくの小学校時代のテリトリーでした。

あのころ松屋町筋はこんな店舗ばかり。

下校途中、しょっちゅう店頭を冷やかし、店員さんから「銀玉鉄砲の玉ぐらい買ってよ」と言われていました(笑)。

その店に吸い込まれるようにして入り、初老の店主に「これ、どこかわかりませんか?」と写真を見せました。

「当時、アーケードを付けてたんはうちの近所だけですねん。これ、うちの店ですわ! 2人のおばちゃんが喋っているのは店の前ですな」

えっ! あっけなく判明しました! 

ほんまにびっくりしました。

やっぱり現場を踏まなあきませんね。

古い写真の松屋町筋の方が広く感じられるのは、通り沿いの建物が低かったからそう見えたのでしょう。

何はともあれ、58年前に撮影された店が今も健在であるのがたまらなくうれしかったです。

気分よく、松屋町筋を南へと逆戻り。長堀通を通過し、さらに千日前通を越え、しばらく歩くと、左手(東側)に目的地がありました。

源聖寺坂(天王寺区)です。

上町台地の西側にある「天王寺七坂」の1つ。

坂の入り口に浄土宗の源聖寺があるので、その名が付けられています。

昭和35年に撮影されたこの写真、構図が大好きなんです。

カゴを背負う右手の男性と坂の傾斜が絶妙なアンサンブルをかもし出しています。

服装と日差しから察すると、夏に撮られたのでしょうね。

左手の「旅館」の看板が気になりますが……。

石畳の坂をゆるりゆるりと上っていくと、途中から石段に変わります。

あと少しで上り詰めるところで立ち止まりました。

そこが撮影ポイントです。

現在、旅館の場所には一戸建て住宅が並び、右側の木造家屋は取り壊されて墓地になり、電柱の位置も変わっていました。

しかし左へ緩く曲がる坂の風情は変わっていません。

たまたまカップルが横を通りすぎたので、許可を得て撮影させてもらいました。

右手の住宅へ入ろうとした買い物帰りの主婦に父親の写真を見せると、えらい懐かしんではりました。

「うちの家、昔は旅館やったんですね。知らなんだ。昔の方が風情がありますね」

もう一度、撮影ポイントに立ちました。

約60年の時の隔たりを経て、今、息子のぼくがおなじ場所でカメラのファインダーを覗いている。

そう思うと、急に感慨深くなり、目頭が熱くなってきました。

被写体の今昔……。

たしかに見た目は変わっていました。

しかし、どんな時代であっても大阪の空気は永遠に不滅なんや。

それを実感させてくれた「タイム・トラベル」でした。

10月 23

映画評論家……についての思い

先日、映画絡みの講演を依頼され、その担当者とのやりとり。

「肩書は映画評論家ですよね」

「ちゃいますよ」

「映画関係の本を何冊も出しておられ、新聞にも映画評を寄稿しておられるでしょ」

「はい、でも映画評論家とちゃいますねん。エッセイストです」

「???」

「評論なんてしてませんから」

「???」

以下、ぼくの持論です。

日本にはやたらと「映画評論家」と称する人が多いです。

「映画ライター」とするよりも箔がつくからでしょうかね。

世間的にもその方が通りがええかもしれませんね。

でも、ガチンコで評論するとなるとほんまに難しい。

ぼくはできませんし、その気もありません。

それよりも自分で「表現」したいです!!

だから、正直、評論家というのが好きではありませんねん(笑)。

他の芸術・芸能・文化の領域を見ると、文芸評論家、美術評論家、音楽評論家……がいかに少ないか。

良く言えば、映画は娯楽性が強く、近しい存在にあるからなのでしょう。

悪く言えば、映画を軽く見すぎている……。

欧米で、映画評論家と名乗っている人はほんまに少ないですよ。

まぁ、社会から「映画評論家」と認められておれば、それは全くノープロブレムですが、あまりにも「自称」の人が多いような気がします。

「ジャーナリスト」の肩書もそうですね(笑)。

その他いろんな分野で、少し専門知識があると、安易に「〇〇評論家」の肩書をつけてしまいます。

日本人は「評論家」がお好きなんですね。

日ごろ思っていることをつらつらと書かせていただきました。

10月 21

Otomo!の「大阪ストーリー」~『川面にそよぐ渡船巡り~飾り気のない大阪に触れる』

Osaka Metro(旧大阪市営地下鉄)のアプリ「Otomo!」で連載中のエッセー第4弾です。

テーマは「渡船」。

まだ暑かった8月末に書きました。

秋が深まりつつある今と季節感が異なりますが、ご了承くださいませ~(笑)

   ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

短パン、Tシャツ、サンダル履き、サングラス。こんなラフな身なりでママチャリに乗り、残暑の厳しい8月下旬、渡船巡りをしてきました。

年に一度、必ず渡船に乗りたくなる「病気」なんです。

時候がよければ、ランニングで行きますが、歩いていくのもなかなかええ塩梅。

今回は趣向を変え、自転車にしました。

どうして渡船なのか? 

それはちょっぴりレトロ感があり、普段着の大阪と触れ合えるからです。

「水の都」の異名を取る大阪には古くから渡し舟が各地にありました。

明治40(1907)年、29カ所の公的な渡船場が設けられ、戦後は昭和23(1948)年、15カ所で再開しました。

現在は8カ所。

いずれも大阪市南西部の港湾エリアにあります。

1カ所だけ民間に業務委託していますが、すべて大阪市が管理。

公道と同じ位置づけなので、乗船料は不要です。

ただし、乗れるのは歩行者と自転車だけ。

自宅(西区新町)からペダルをこいで木津川沿いを南下し、千鳥公園(大正区)の東にある落合上渡船場へ到着しました。

待合所から眺める木津川は意外と川幅が狭い。

東側にある対岸の渡船場(西成区)が目の前に見えます。

乗船はぼくだけかなと思っていたら、運行時間の直前になってぞくぞくと利用者がやって来ました。

みな近所の人たちで、渡船の時間をちゃんと把握してはるんですね。

大半は自転車の人。

落合上渡船場。スロープを上がると、その下に桟橋があります

「こんにちは」

「今日も暑いですね」

船を操舵するおじさんに口々に挨拶し、みなさん船に乗り込みます。

運航時間は2分ほど。

その間、潮の香りをかすかに含んだ川風がそよぎ、得も言われぬ心地よさに酔いしれました。

立ったまま。揺れがあると危険なので、船上での写真は御法度です。

対岸の渡船場に着くと、「ありがとうございます」、「おおきに」と必ずお礼を言い、「お気をつけて」の言葉を背中に受けて下船。

こういう言葉のキャッチボールは理屈抜きに心が和みますね。

渡船は対岸に接岸して利用者を乗せると、すぐにUターンします

500メートルほど下流の落合下渡船場から今度は木津川を西側へ渡り、さらに自転車で南へ。

この辺り、大きな工場が建ち並んでいます。

日曜日なので閑散としていましたが、平日ならトラックが頻繁に行き交っていることでしょう。

モダンな落合下渡船場の待合場

流麗なループ橋の千本松大橋を仰ぎ見る千本松渡船場。

そこでサイクリングの一団と出会いました。

中年男の5人組。

訊くと、豊中から堺の浜寺をめざしているそうで、「渡船を乗るのが楽しみですわ」とリーダー格の男性が日焼け顔で答えてくれました。

所どころ渡船場の案内板が設置されています

千本松大橋の下を航行する渡船

このあとOsaka Metro四つ橋線の北加賀屋駅(住之江区)近くでランチを取り、南港通を西へ進み、木津川渡船場へ。

数えると、木津川に4か所も渡船場があります。

対岸には中山製鋼所。

でっかい! 

阪神工業地帯の一翼を担っているのを肌身で感じられました。

木津川運河の向こうにデンと構える中山製鋼所

渡船で木津川を北へ渡り、工場街の船町(大正区)を縦断して先端にある船町渡船場へ来ると、「早く、早く!」と職員さんの声。

「わっ、すんません!」

あわてて乗船したら、すぐに動き出しました。

間一髪セーフ。

船町渡船場では間一髪、乗船できました

木津川運河を渡ったところが鶴町(大正区)です。

整然と団地が建ち並ぶ中を北上し、アーチが美しい千歳橋の下にある千歳渡船場へ来ました。

ここは大正内港の付け根に当たります。

多くの貨物船が停泊しており、向こうに緑豊かな千鳥公園が望めます。

視線を左へ移すと、弁天町(港区)の高層ビル群。

素晴らしい景観にうっとりさせられました。

穏やかな情景を見せる大正内港

弁天町の高層ビル群を望む

台湾から大阪観光に来た家族連れがいました。

「こんな渡船、国(台湾)にはないです。タダというのが嬉しい」

小柄なご主人が片言の日本語で話してくれました。

今や渡船はちょっとした観光の目玉になっており、外国人だけでなく、国内の観光客も渡船を乗りに来ています。

千歳渡船は一番距離があり、対岸の北恩加島(大正区)まで約4分かかりました。

途中、悠然と航行する貨物船のそばを水上オートバイが水しぶきを上げて突っ走っていきました。

なかなか刺激的な光景でした。

ちょっとした旅情を味わえる千歳渡船

7つ目は尻無川の甚兵衛渡船場です。

大正区泉尾と港区福崎を結んでいます。

この付近、学校が点在しており、平日の朝晩は通学する生徒で混み合い、二隻の渡船がフル稼働します。

船内に電車の車内と同じ吊り革がありました。

利用者が最も多い渡船です。

この日はしかし、夏休みの日曜日、いたってのどかな風情でした。

利用者が一番多い甚平衛渡船場

「毎日、利用してはるんですか」

「ええ、買い物に行くときは便利やしね。生まれたときから渡船に乗ってますよ。ハハハ」

同船した年配の主婦の言葉から、渡船が日常に欠かせない〈市民の足〉になっているのがよくわかりました。

港区側の甚兵衛渡船場から見た尻無川水門

甚兵衛渡船場から北西へ約2.5キロに位置するのが残る1つの天保山渡船場です。

海遊館のある港区築港とUSJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)のある此花区桜島を結んでいます。

安治川をはさんでの二大観光スポット。

そのため近隣住民に加え、観光客がめっぽう多く、USJのアメリカ人従業員の姿もよく目にします。

暑さでいささかバテ気味となり、今回は天保山渡船をパス。

甚平衛渡船場から自宅へ直帰しました。

飾り気のない庶民的な空気をたっぷり吸え、思いのほか心の洗濯ができました。

8月 07

慢性副鼻腔炎の日帰り手術リポート

昨日の午後零時半、サンダル履きで近くの耳鼻咽喉科医院へ。

手術着に着替え、ベッドに横になるや、顔に覆いをかぶせられました。

てっきり術中の様子をテレビカメラで観られると思っていたので、ガックリ。

ドクターが局所(鼻の奥)麻酔をし、鼻の穴から内視鏡を挿入しはりました。

ドボドボ、ギュンギュン、ガチガチ、ジジジジ、ギーギー……。

ウミとポリープを摘出(吸引)後、「突貫工事」をしているのが耳によく聞こえてきました。

結構、大きな音です。

再発防止のため、鼻腔内にいくつもある「小部屋」を取り除き、1つの「大部屋」にするみたい。

つまり骨を削り取るんです。

右、左と交互に「工事」が進められていきました。

「痛くないですか」⇒「ええ塩梅です」

「ちょっと力を入れますよ」⇒「はい、何ぼでも入れてください」

「この部分、硬いですね」⇒「それ、どの部分ですか」

こんな具合にドクターと掛け合いをしていました。

手術時間は午後1時からかっきり2時間。

全く痛くなかったです。

「お疲れさまでした。いかがですか」(ドクター)

「なかなか刺激的な体験ができ、面白かったですよ」

「えっ! そんなふうに患者さんから言われたのは初めてですわ~(笑)」

横で看護師さんがクスクス笑うてはりました~(^_-)-☆

術後、しばらく院内のリクライン・シートで休憩してから、鎮痛剤を処方してもらい、帰宅しました。

麻酔が覚めてくると、頭がズキンズキンとしましたが、鎮痛剤で抑えました。

さすがグッタリとし、スマホを見る気もせず、終日、ボケーッと。

傷口が治まるまで血のついた鼻水がしゅっちゅう出るのがやっかいですが、今日はだいぶマシになっていました。

明日から普通に日常生活を送れるそうです。

1週間の禁酒も、ノンアルコール・ビールがちゃんとサポートしてくれそう~(笑)

鼻の詰め物(止血剤混入の吸水パッド)が取れ、美声になる(ほんまかいな?)日が待ち遠しいです~(^_-)-☆

ちなみに、手術費は高度療育費が適用され、5万7600円でした。

今日、撮影した写真、鼻が膨らんでいますが、これ詰め物をしているからです(笑)。

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