Category Archive: ポーランド紀行

9月 09

ポーランド紀行(12)最終回~レンズがとらえた美女たち

ポーランド紀行のリポートも今回が最後です。
昨日、女優、鈴木京香さんの写真をいっぱいアップしたので、その“延長線上”でポーランドの美女たちをどうぞ~。
ワルシャワに着いて、一番、驚いたのが美人が多かったことです。
スラブ系の人たちが暮らす東欧諸国は「美女多発地区」~!!
以前、訪れたチェコ、スロバキア、セルビア、ブルガリアでもそうでしたが、今回はちょっとゆとりを持った旅でしたので、ことさら美人が目につきました。
なかには思わず、盗撮した人もいます。
ごめんなさいね。
でも、あとで目が合って、会釈すると、みなニコッと笑ってくれましたから、まぁ、了承を得たものと理解しています。
彼女たちがこぞって日本に来たら、大変なことになりますよ。
同伴の嫁さん公認の撮影でしたから、ノープロブレムです(笑)。
前置きはいいから、早く写真を見せろ~!?
はい、はい、わかりました。
では、一挙公開です。
ワルシャワの少年兵士像の前で、パチリ。
カメラを向けているのを知った彼女は、笑いながら、手で銃を撃つ仕草を見せました。
大阪人のぼくは、もちろん死んだフリをしました(笑)。
このノリ、大阪でしたなぁ~。
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古都クラクフの街角で、道を訊いたお嬢さん。
わかりやすい英語で丁寧に教えてくれはりました。
ありがとうございました。
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これもクラクフの広場で。
ワルシャワから観光で来た2人組。
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ポーランド最古の大学、クラクフ大学のキャンパスで撮影。
シャッターを押したあと、彼女が寄ってきて、「日本人ですか?」と流暢な日本語で聞かれました。
びっくりした~!!
大学で日本語を学んでいるとか。
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この女性はポーランド人ではなかったです。
イタリア人。
ミラノからの観光客。
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クラクフのヴァヴェル城で見かけたカップル。
この女性、てっきりフランス人俳優のジュリエット・ビノシュと思いました。
そっくりさんでした。
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トルンのバスターミナルに座っていた女性。
嫁さんを撮るフリをして、姑息的に盗撮しちゃいました。
ちょっと睨まれたけれど、そのあと得も言えぬ笑顔を見せてくれました。
あ~、ホッとした。
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グダニスクの旧港で必死になってバイオリンを弾いていた少女。
演奏はいまひとつでしたが、たまらなく可愛かったです。
多くの観光客が彼女にレンズを向けていたので、ぼくもちゃっかり1枚、撮らせてもらいました。
撮影慣れしていたような……。
少女
グダニスクからヘル行きのローカル列車で、泣いていた女の子。
泣き止んだところを、望遠カメラで。
撮影した画像を母親に見せたら、ケラケラ笑ってました。
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帰国の前日、ワルシャワの旧王宮前の広場で、妖精のような娘さんがバイオリンを弾いていました。
街頭でクラシックを演奏する人が結構、多かったですね。
この子、演奏が上手だったので、カゴにコインを入れると、「サンキュー!」と一礼し、とびきり素晴らしい笑みを浮かべてくれました。
さわやかな感じで、すごく気持ちがよかった。
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ということで、ポーランドの旅を楽しく終えることができました。
毎回、ルポを読んでいただき、ありがとうございました~!!

9月 07

ポーランド紀行(11)~第2次大戦勃発の地、ヴェステルプラッテ

グダニスクの造船所と博物館「自由への道」を見学したあと、旧港から遊覧船に乗って、ヴェステルプラッツに向かいました。
北へ4キロ、第2次世界大戦勃発の地です。
ポーランドの旅でどうしても訪れたかったところでした。
雲ひとつない快晴の下、遊覧船はモトワヴァ運河をどんどん北上していきます。
さわやかな風がそそぎ、体が浮遊しそうなほど心地がよい。
デッキでは日光浴している人もいました。
このおじさん、布袋さんみたいだったので、思わず盗撮~!
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左手には、グダニスク造船所のドックが迫ってきました。
45分後、ヴェステルプラッツの桟橋に到着。
ヴェステルプラッツは運河がバルト海に注ぐところにあり、ちょうど運河と海にはさまれた砂州のような細長い岬になっています。
あちこちに説明板が立っていました。
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ポーランド語、英語、ドイツ語の解説文。
ドイツ語があるということは、ドイツ人が多く訪れるということです。
英語バージョンを読むと、ここがどんなところだったのかよくわかりました。
何と19世紀には一大リゾート地だったんです。
温泉も出て、金持ちの別荘が立ち並んでいたそうです。
しかしバルト海をにらむ戦略的な重要なスポットとあって、第1次大戦前にポーランド軍の基地が作られ、すっかり様相が変わってしまいました。
「ここはバルト海のジブラルタルだ」
かのナポレオンがそう評したそうです。
西方、岬の先端へ歩を進めると、トーチカや監視塔、兵舎などの跡があちこちに。
確かに戦争の匂いが感じられます。
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1939年9月1日午前4時45分、友好訪問と称して寄港しにきたドイツの練習船シュレスヴィッヒ・ホルシュタインがいきなり発砲しました。
それが第2次大戦の始まりでした。
当時、グダニスクはドイツ語名のダンツィヒという名でした。
国際連盟管理下に置かれていた自由都市です。
ヒトラーはしかし、ポーランドの東に隣接する東プロシアへの通路(ポーランド回廊)の確保と、ダンツィヒに多く住むドイツ系住民の保護とかつてドイツ領だったという理由で、予告なしに侵略してきたのです。
めちゃめちゃですね。
自国のことしか考えていない(現在も大国はそうですが……)。
ポーランドはイギリス、フランスと軍事同盟を結んでいたので、ドイツのポーランドへの攻撃によって、英仏がドイツに宣戦布告したわけです。
軍艦からの艦砲射撃のあと、約3500人のドイツ軍へ上陸してきました。
その状況が、説明板に写真付きで詳しく書かれていました。
迎え撃つポーランド軍の防衛隊はわずか182人。
少数ながらも、彼らは果敢にドイツ軍の侵攻を食い止めました。
それが後にナチス・ドイツに対するポーランドの抵抗の象徴になったといわれています。
1週間後、やむなく防衛隊はドイツ軍に投降……。
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岬の先端、小高い丘のうえに高さ25メートルの記念碑がそびえていました。
不戦の誓いを込めたモニュメントです。
遠目から見ると、剣の柄を土に埋め込んだ形になっています。
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近くの林には、英語で言えば、「NO MORE WAR」と記された表示板が掲げられていました。
モニュメントにもその文字が彫られています。
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なのに、戦争はその後も各地で起こっており、今も悲劇が絶えません。
この塔を眺めていると、旅の初め、ワルシャワ蜂起博物館で目にした壊滅状態のワルシャワの
街が瞼に浮かんできました。
あぁ……、ため息がもれてきました。
翌日もポーランド晴れ。
バルト海の沖ににょきっと伸びるヘル半島へ足を伸ばしました。
半島の先にあるヘルの町までグダニスクから船で行くのが常套手段ですが、ちょっと趣向を変え、行きは列車にしました。
それが思いのほか時間がかかり、何と3時間以上もローカル列車に揺られるハメに。
ヘルに着いたのは午後1時近くになっていました。
ヘル(1)
まぁ、田舎の列車も悪くはなかったですが。
ここは保養地です。
海岸はびっしり人で埋まっていました。
ヘル(2)
どことなく須磨の海岸と似ていましたね。
高級リゾート地ではなく、庶民のくつろぎの場。
ヘル(3)
えらい人が多いな~とちょっとうんざりし、下を向いて歩いていたら、なな何と~、100ズウォティ紙幣と20ズウォティ紙幣が、紙入れのように落ちていたんです。
合計すると、日本円で約3600円~!!
ポーランドの物価に照らし合わせたら、1万円ほどの価値があります。
だれも気づいていません。
ぼくは反射的に拾いました。
警察に届けようかと思いましたが、クラフクでアンジェイ・ワイダ監督と奇跡的に出会えた強運のおかげなんや~と勝手に判断し……。
悪いですねぇ。
でも不思議と罪悪感がなかったです(笑)。
海辺を散策したり、カフェでビールを飲んだりして3時間ほどヘルに滞在し、帰りは船でグダニスクへ戻りました。
ヘル(4)
ヘル(5)
デッキに出ると、バルト海の潮風がぼくの体をスーッと通り抜けていきました。
旅もいよいよ終わり。
明日、列車でワルシャワへ向かうだけです。

9月 05

ポーランド紀行(10)~民主化の発祥地グダニスク

裏切られた~!
いい意味で。
ポーランド北部、バルト海にほど近いグダニスクは国内きっての港湾都市と聞いていたので、てっきり無機質な街並みがひろがっているのだろうと思っていました。
それが全然、ちがいました。
旧市街は見事なほど華やいでいました。
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とりわけモトワヴァ運河に面する旧港の辺りは、絵に描いたように美しい景観を誇っていました。
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下の写真、出っ張っている建物は500年前に使われていた木造のクレーンです。
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遊覧船の乗り場は賑わっています。
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帆船スタイルの遊覧船も。
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ウォーターフロントはこうでなければアカンというお手本みたいな感じでした。
街には、飲食物、衣料品、アクセサリー、家具、CD&レコード……などなど。
ありとあらゆる物が露店で売られていました。
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ちょうど街のフェスティバルが開かれており、終日、活気づいていましたね。
仮装した女の子たち。
カメラを向けると、素敵な笑顔を見せてくれました。
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街のはずれには巨大なサッカー・スタジアムが。
来年のサッカー欧州選手権は、ウクライナとの共同開催で、ここも会場に使われます。
想像していた街とはあまりにも違っていたので、驚くと共に、いっぺんに好きになってしまった。
グダニスクは14世紀にハンザ同盟の一員となり、交易で大いに栄えました。
ハンザ同盟って、世界史で習いましたねぇ。
通商協定を結んだ都市同盟。
そして16~17世紀に黄金時代を迎えましたが、その後、ロシア帝国とプロシア帝国に相次いで占領されました。
プロシアの時代にはダンツィヒと改名され、今でも当地を訪れるドイツ人観光客はそう呼んでいました。
第1次大戦中、自由都市ダンツィヒになりましたが、第2次大戦の勃発後、すぐにナチス・ドイツに占領され……。
戦争末期、ドイツ軍と連合軍との間で戦場となり、街が壊滅しました。
しかし、よく似た悲劇に遭った首都ワルシャワと同じように、戦後、市民の尽力によって、昔の街並みが戻りました。
グダニスクはもう一度、来たいと思うほど、素敵な街です。
ぼくがここを訪れたのは、ポーランドの民主化の発祥地だから。
1980年、統一労働者党(共産党)による硬直化した政治、物価の値上げなどの社会不安に対し、グダニスクの旧レーニン造船所(現在、グダニスク造船所)の労働者が立ち上がったのです。
それが独立自主管理労働組合「連帯」でした。
当時、ヨーロッパのニュースは「連帯」のことばかりで、否が応でもポーランド情勢に目を向けたものです。
アンジェイ・ワイダ監督もその動きを追い、ドキュメンタリー風の作品『鉄の男』(81年)として世に発表しました。
その「連帯」の運動が、一党独裁の社会主義政権を瓦解させ、東欧で初の民主化実現へと至りました。
「連帯」を率いたのは、議長のレフ・ワレサ。
造船所の電気技師で、第2代の大統領を務めはりましたね。
そうそう、ノーベル平和賞も受賞してはります。
グダニスクへ到着した夜、ホテルのテレビでワレサが演説している姿を見ました。
現在、67歳。
まだまだ若い。
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市内観光もほどほどに、造船所へ足を向けました。
中心部から北へ少し歩いたところです。
意外と街中にあるんだと吃驚した次第。
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正門の手前に、高さ42メートルのモニュメントがそびえていました。
70年に起きた造船所のストライキで犠牲になった労働者たちの慰霊塔です。
この塔ができた直後、「連帯」が産声を上げたことになります。
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「鎮魂」と書かれた日本語の慰霊プレートも。
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午前10時になると、正門からだれでも入れます。
ぼくも入りました。
造船所は今でも稼動していますが、規模がかなり縮小され、かつて建物が立ち並んでいたであろう場所がだだっ広い更地になっていました。
そんななか、レンガの建物がポツンと建っていました。
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「連帯」の本部があった場所で、「連帯」の歩みを解説する展示場です。
館内は、あのころを記録した写真がいっぱい。
時代の変革期、いや激動期だったんですねぇ。
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スタッフに話を聞こうにも、だれもいません。
女性のガードマンが守衛室にいましたが、コミック本に夢中でした(笑)
この建物の向こう側にドックがありました。
水面はバルト海ではなく、モトワヴァ運河です。
バルト海は、北へ4キロほどのところ。
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造船所を出て、街中へ戻る道に装甲車が!!
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「連帯」運動が活発化したとき、政府軍が鎮圧するために導入したものです。
この地下に「自由への道」という博物館がありました。
道路にはそれを記す表示。
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「自由」とは、民主化を達成したことです。
館内には、戦後、社会主義時代の苦しい暮らしぶりを再現した展示の数々。
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街中には秘密警察員がいて、うかつに政治のことを喋れない!
早朝から長時間、商店の前で並んでも、店に商品がなかった!
知らぬ間に盗聴されている!
こうした窮屈な、かつ耐え忍ばねばならなかった時代の重さがズシリと伝わってきました。
束縛されることが大嫌いで、我慢強くないぼくには到底、暮らしていけません。
この手の博物館は、ポーランドだけでなく、旧社会主義圏の東欧諸国に行けば、どこにでもあります。
チェコ、ハンガリーでぼくは見ました。
米ソ冷戦期、西側を徹底的に批判し、ソ連を賛美したことを全面的に否定しているのですから、時代の変遷というのは恐ろしいものです。
民主化から22年。
あの時代を知らない世代が増えています。
「語り継いでいくことが私たちの務めです」
学芸委員の女性の言葉は、そのまま戦争にも当てはまるものですね。
博物館から出ると、バルト海へ降り注ぐ陽光がまばゆく輝いていました。

8月 31

ポーランド紀行(9)~コペルニクスの生誕地、トルン

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これ、ニコラウス・コペルニクス(1473~1543年)の銅像です。
大昔、中学か高校で、コペルニクスの名を覚えました。
太陽が中心に惑星が動いているとする「天動説」を唱えた天文学者。
「天動説」なら、イタリア人のガリレオ・ガリレイの方が有名かもしれませんが、コペルニクスの名を知らない人はいないと思います。
この人が生まれたトルンを訪れました。
思いがけず映画の世界に浸れたウッジから、北部の港湾都市グダニスクへ直行する予定でしたが、移動距離が長いと判断し、ちょうど真ん中に位置するトルンで途中下車。
旧市街は世界遺産に登録されています。
確かに中世の息吹が存分に漂っていました。
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ポーランドには世界遺産のスポットが13か所あります。
コペルニクスの生家もちゃんと残っていました。
中は博物館です。
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この人、ドイツ系のポーランド人だったそうですね。
彼が生きていた15~16世紀、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人、ロシア人、チェコ人、リトアニア人、ウクライナ人らが混在していた時期です。
だからコペルニクスは、他者から何人なのかと訊かれたとき、あえて「トルン人」と答えていたとか。
旧市街の外れには、ドイツ騎士団が建てた廃城がありました。
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ドイツ騎士団というのは、12世紀、イスラム教徒に占領された聖地エルサレムを奪回すべく結成された十字軍の一団です。
別名、チュートン騎士団。
それがバルト海沿岸にいた異教徒を駆逐するため、13世紀、ポーランドへやって来て、建造したのがこのお城です。
この辺り、ドイツ騎士団の名残がいろいろ残っています。
各地で略奪を繰り返し、悪名で名を売っていたそうです。
街の中心にゴシック建築の旧市庁舎が建っています。
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その前にコペルニクスの像が屹立していました。
旧市庁舎の塔に登ると、街のすべてが見下ろせます。
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街の景観が統一されていて、日本では絶対に見られない光景ですね。
でも、あまりにも整いすぎていて、正直、刺激がなかったです。
旧市街なら、フランスの田舎町の方がはるかに風情があると思いました。
それに観光客がめちゃめちゃ多く、ここはぼくの来るところではなかったと実感。
ポーランド紀行の9回目は、そんな事情もあり、軽く紹介しました(笑)。

8月 26

ポーランド紀行(8)~映画の匂いが漂うウッジの街

ポーランドで、首都ワルシャワについで第2の都市ウッジ(人口約74万人)にやって来ました。
ガイドブックには「ウッチ」と表記されていますが、クラクフでお世話になった通訳の岩田さんが「ウッジ」と書いてはったので、そう記します。
旅に出て、観光名所ばかり訪れるのはもったいない。
そんな旅、ぼくは大嫌いです。
せっかく海外に出向くのだから、できれば、何かテーマを持って、オリジナルで能動的な旅を心がければ、一生忘れられない思い出になります。
全く観光地でない、おそらく日本では知られていないウッジにぼくの関心を引きつけたのは、映画でした。
この街に来るまで、自分なりに強烈なビッグ・ドラマがありました。
まずはそれを説明します。
ウッジに行く目的のひとつが映画博物館の訪問でした。
しかし日曜日なので、閉館時間が午後3時。
そのことを旅立つ前に日本で調べていました。
それなら翌日の月曜に見ればいいと思ったのですが、月曜が休館日。
なので、どうしてもこの日のお昼過ぎにはウッジに着きたかったのです。
クラクフから直通列車が何本も出ていると思いきや、日曜日とあって、本数が極端に少ない。
バスでは、向こうに着くのが遅すぎる。
そこで列車でワルシャワまで戻り、ウッジ行きの列車に乗り換えることにしました。
それなら午後1時ごろに着けるはずでした。
ウッジはクラクフの北約200キロ。
ワルシャワはクラクフの北北東約280キロ。
位置関係、わかりますか。
つまりかなり迂回するわけですが、それしか移動手段がないので、仕方がないです。
前日、アンジェイ・ワイダ監督と奇跡的な出会いを果たし、ルンルン気分で、クラクフ本駅から午前7時発の快速に乗り、ワルシャワ西駅に向かいました。
車内はいっぱいで、ぼくと妻は連結の間、トイレの前に荷物を置き、そこに座ってました。
こんなことしょっちゅうなので、別段、苦にならなかったです。
3時間後、ワルシャワ西駅で下車、15分後に来るウッジ行きの列車に乗ろうとしました。
しかしホームが1番から10番ほどもある大きな駅で、何番線に列車が来るのかわからず、車掌に聞いたら、「知らない」とすげない返答。
ホームの表示板も地下通路の表示板もすべて壊れている~!!
それに駅員の姿が見当たらない。
地下通路で何とか見つけた女性駅員に、「ウッジ」と書いたメモを見せると、2番線だという。
あわててそのホームに上がると、親切そうな男性が「ここは反対方面、ワルシャワ中央駅行きのホーム。ウッジは7番か8番のはず」と英語で教えてくれました。
えっ! 
先ほどの駅員の答えは何だったのか!?
重い荷物を下げ、また地下通路を通って、7番線に上がると、だれもいない。
8番乗り場も回送列車が停まっている。
そのあと何人かに尋ねましたが、みな答えが違う~!!
その度にえっこらさと荷物を抱えてホームに上がる。
想像してください、かなりしんどいですよ。
1人くらいウッジ方面に行く乗客はおらへんのんか~。
まともな駅員はおらへんのんか~。
切符売り場に駅員がいたのですが、長い行列ができて割り込めない~。
だんだん怒りがこみ上げてきました。
その列車に乗らないと、映画博物館に行けなくなる。
焦った。
でも、刻々と時間が過ぎてゆき、結局、目的の列車が何番線に来たのかすらわからず、乗り遅れてしまいました。
こんな経験、初めて。
情けないやら、腹が立つやらで。
ポーランドの鉄道関係の人! もっとちゃんとせなあきまへんで!!
日本のJRを研修しに来てほしいと痛感した次第です。
ワルシャワ-ウッジ間は、日本で言えば、東京-大阪間みたいなものなのに、日曜日になると、信じられないほど本数が少ない。
参った。
次の列車だと、間に合わない。
あゝ、ワイダ監督との出会いで運を使い果たしたのか……。
そう自分を慰め、半泣き状態で隣接するバスターミナルへ。
鉄道の乗車券はこの際、無駄にしてもしゃーない。
バスならあるかもと期待しました。
しかしバスは夕方の便しかなかった。
あ~、最悪!!!
半泣きどころか、涙が出てきそうになりました。
こうなったら最後の手。
タクシーだ!
ワルシャワ西駅からだとウッジまで100キロの距離。
大阪から滋賀県彦根市までと同じくらいです。
かなりの長距離ですが、この際、贅沢しても致し方なしと腹をくくりました。
バスターミナルから乗ったタクシーの運転者は、ここからウッジまで客を運んだことがなかったようで、驚いていました。
でも、事情を話すと、「よほど映画が好きなんですね」と同情してくれました。
この人、すごく紳士的な中年男性で、10年前、オーストラリアに出稼ぎに行っていたそうで、英語が堪能でした。
車中、ポーランドのことをあれこれと聞くことができ、いつしか列車に乗り遅れたことなんか忘れてしまっていました。
こういう性格なので、助かっています(笑)。
一番印象的だったのが「学生時代、ロシア語が必修でしたが、全然、使い道がないです。英語を話せないと、ダメですね」という言葉でした。
2時間半かかって、何とかウッジに到着。
タクシー代は……、秘密にしておきます(思ったほど高くなかったです)。
午後1時45分。
これなら映画博物館に間に合うぞ。
宿屋に荷物を放り込み、さっそく速歩で博物館へ。
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入り口の案内表示を見ると、なななな何と~、日曜でも午後6時まで開いていることがわかりました。
えっ~~~!!!!!
何のためにワルシャワまで迂回し、タクシーを使ってやって来たんやーー!!!
このときは本当に落ち込みました。
日本でネットでチェックした情報は古かったのでしょう。
指の先に砂糖をたっぷりつけていました。
?????
ツメが甘い……(わかりますか?)。
これも人生経験やと開き直り、館内を見学しました。
入ったところに、ワイダ監督の代表作のひとつ『大理石の男』(1976年)の主人公ビルクートの像がありました。
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感激~!
1950年代、スターリン主義の時代に優れたレンガ職人として、国の英雄に祭り上げられたビルクートが、ちょっとしたことで失墜し、国家の敵になっていく様子をあぶり出した作品。
かつてのヒーロー、今いずこ~。
ワルシャワのラジオ局でアルバイトする女子学生が、タブー視されていた50年代にメスを入れながら、ビルクートの行方を探っていくという展開が結構、スリリングでした。
そのビルクート像の横に立って記念撮影。
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いきなりワイダ監督の世界に触れ、ここはポーランド映画についての博物館だと思いましたが、映画全体の歴史と解説がなされていて、ちょっぴり落胆しました。
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館内には、クラシカルな映画のポスターがいっぱい掲示されていました。
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「鉄十字軍」という邦題の映画のポスターも。
どんな作品だったのか、ピンときませんが。
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これはびっくりしました。
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ズビグニエフ・チブルスキーです。
往年の映画ファンには懐かしいでしょうね。
アンジェイ・ワイダ監督の傑作『灰とダイヤモンド』(58年)で主人公を演じたカリスマ的な男優。
第2次大戦終結前夜、反ソビエト派のテロリスト、マチェックに扮し、鮮烈に散っていった姿が忘れられません。
これは切手の原画らしいです。
だから写真ではなく、肖像画。
ぼくはロンドン(英国)、ベルリン(ドイツ)、フランクフルト(ドイツ)、トリノ(イタリア)、パリ(フランス)など各地で映画博物館を訪れましたが、内容的にはここの博物館はちと薄かった。
なのに、この博物館を観るがために必死のパッチになって……。
いや、もうそれは言うまい。
映画博物館の近くにウッジ映画大学がありました。
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ここはアンジェイ・ワイダ、ロマン・ポランスキー、クシシュトフ・キェシロフスキ、アンジェイ・ムンク……らポーランドの映画人の大半を輩出しています。
前日、ワイダ監督に「ウッジの映画大学に行きます」と言ったとき、「あれは大学ではなく、専門学校ですよ」と笑っていたのを思い出しました。
確かに小さい。
でも、映画監督、テレビのディレクター、舞台の演出家、撮影監督・技師、カメラマン、俳優を養成する立派な国の教育機関。
学生の話を聞きたかったのですが、日曜なので、残念ながら門は閉ざされていました。
このあとウッジの街を散策。
どことなくうら寂しい雰囲気が……。
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これはテレビ局が入っている社会主義時代のビルです。
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おそらく戦前の建物だと思います。
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ウッジは19世紀、繊維産業で殷賑をきわめ、一大工業都市に発展しました。
戦後の米ソ冷戦時期も「イトヘン」の街として活況を呈していましたが、89年に民主化が実現してから、みるみるうちに衰退していきました。
かつての工業都市が歩むよくあるパターンですね。
それが最近、都市開発が進み、文化をメーンに再生を図っているようです。
街の北側に、巨大な繊維工場を改造し、映画館、ショッピングモール、博物館などを兼ね備えたアミューズメント施設「マニュファクトゥーラ」ができていました。
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目抜き通りのビオトルフクスカ大通りで、ロマンスキー監督とキェシロフスキ監督の名を刻んだプレートを見つけました。
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ウッジから出た世界的に有名な映画監督に対する顕彰碑みたいなものなのでしょう。
どういうわけか、ワイダ監督のプレートが見当たりませんでした。
しかし市立歴史博物館で収穫がありました。
ワイダ監督の文芸映画『約束の土地』(74年)をたたえた展示があったのです。
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この映画は19世紀末、ここウッジで、ポーランド人青年、ドイツ人青年、ユダヤ人青年の3人が共同で繊維工場を興す物語です。
3人3様、国民性(民族性)の違いを表し、結局、頓挫するという、ちょっぴり皮肉めいた内容でしたが、文学の香りが充満しており、ぼくには非常に印象深い作品です。
撮影はすべてウッジで行われました。
だから、もちろんワイダ監督への敬意が表されていました。
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3人の俳優が20年後の1994年に再会したときの写真です。
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あっと驚いたのが、ショパンを弾かせたら右に出る者はいないといわれたピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインのコレクションが展示されていたことです。
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「神に愛されたピアニスト」
こんな異名を持つユダヤ系の音楽家ですよね。
彼はウッジで生まれ育ち、大戦の2年前(37年)にナチスの脅威から逃れ、渡米しました。
わ~っ、日本語のポスターも。
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工業都市だったウッジで、思いのほか文化に触れ、何だか得をしたような気分に。
はい、タクシー代のことは完全に忘れていました(笑)。

8月 23

ポーランド紀行(7)~アンジェイ・ワイダ監督との奇跡的な出会い

前回と前々回は、ともに「負の遺産」のリポートだったので、読むのがしんどかったと思います。
書いている本人も疲労感を覚えました。
7回目の今回は、ガラリと雰囲気を変え、気持ちが高揚する内容です。
旅のハイライトとなったアンジェイ・ワイダ監督との出会い~!!!
その一部は、本日(23日)の読売新聞夕刊の文化欄に載っていますが、ここでは細部にわたって報告します。

アウシュビッツ&ビルケナウ強制・絶滅収容所を訪れ、どうしようもなく暗鬱な気分に包まれていたので、翌日(7月30日)は気晴らしにフリータイムにして、クラクフの街を観光しました。
ヴァヴェル城を見たあと、だんだん雲行きが怪しくなり、そのうち雨が降ってきました。
お昼過ぎです。
気温がどんどん下がり、寒くなってきたので、どこか温かい場所がないかなと、『地球の歩き方』を調べたら、ヴィスワ川の対岸に日本美術・技術センターがあるのがわかりました。
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橋を渡ったところです。
紫外線量が極端に少なく、ごらんの通り、黒っぽい写真になっています。
そこは5000点の浮世絵をはじめ日本の古美術約7000点を所蔵する美術館です。
ポーランドの著名な美術コレクター、故フェリックス・マンガ・ヤシェンスキ氏が戦前に収集したものです。
だから、彼の名前をとって、「マンガ」と呼ばれています。
日本の漫画とは関係ないです。
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とにかく体が冷えてきたので、そのセンターに入りました。
すると、ホールで人が集まっていました。
講演会のようです。
アンジェイ・ワイダ監督 001
しかし聴衆がポーランド人ではなく、日本人の子供たちでした。
みなブルーのトレーニングウエア姿。
持ち前の好奇心から、一番後ろに座っている女の子に訊きました。
「日本人やね~。みんなどこから来たん?」
突然、日本語で、しかも大阪弁でなれなれしく声をかけられたので、その子は吃驚しました。
「観光客やから、心配せんとき」
よけいに怪しまれたかなと思いましたが、緊張した面持ちできちんと返答してくれました。
「宮城と岩手から来ました」
えっ! 被災地から!!
一瞬、血が昇った。
記者魂がふつふつと湧いてきたのです。
彼らは宮城と岩手の中高校生で、全員、空手部に属しているとのこと。
生徒30人、引率の先生が3人。
何でここに来ているんやろう~??
質問しようとしたら、ポーランド人の女性が静かにしてくださいと口に手を当て、ぼくと妻にイスを用意してくれました。
こうなれば、講演に耳を傾けるしかない。
だれが話しているんだろう?
窓ガラスの光が邪魔して、話し手の姿がシルエットになり、よく顔が見えませんでした。
ポーランド人のご老人らしいことはわかりましたが。
テレビ局のクルーが取材に来ている。
新聞記者もいるみたい。
アンジェイ・ワイダ監督 002
きっと著名な人なんだ。
ますます興味が出てきました。
いや、被災した日本の子供たちの訪問を取材しに来たのかもしれない。
「前で喋ってはる人、だれ?」
先ほどの女の子に訊くと、きょとんとして、「アン……。アン……何とかという有名な人らしいです」。
このセンターの館長さんかもしれない。
ぼくは席を立ち、少し前に出て、思い切ってストロボで撮影したら、はっきり顔が浮かびました。
アンジェイ・ワイダ監督 003
あれっ、どこかで見たことがあるぞ……。
演者はこのセンターの概要を説明しているようでした。
その中で、通訳の日本人女性が「京都賞」という言葉を発しました。
まさか!
「仙台に行ったことがあります。1日でも早く立ち直ってほしい」
ご老人は励ましの言葉を送り、講演は終わりました。
そのあと通訳の女性が「アンジェイ・ワイダ監督でした。今日はみなさんに会いに来られたんです」。
拍手が巻き起こる中、ぼくはただただ体を震わせていました。
アアアアア、アンジェイ・ワワワワイダ~ッ!!!
そんなアホな~!!
頭が真っ白になりました。
このポーランドの旅は、ワイダ監督の作品の舞台を巡るのを主目的にしていたのです。
それが本人に会えるとは……、夢にも思わなかった。
奇跡、奇跡、奇跡、奇跡~!!!
ぼくは心の中で何度も叫びました。
旅立つ前、監督にインタビューを申し入れようかと思ったのですが、あれこれと気ぜわしく、「もうええか」と断念し、そのまま出発したのです。
なのにアポイントメントなく、かくもあっさり監督と邂逅でき、自分の運の強さにあきれ返りました。
いつまでも呆然としているわけにはいかない。
取材できるぞ。
チャンス!
反射的に前に足を向けると、子供たちと和やかに記念撮影に応じている監督の姿がありました。
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85歳のワイダ監督からすれば、ひ孫のように見えますね。
穏やかな笑みをたたえ、好々爺然としていました。
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ぼくがカメラを向けると、ますます温顔に。
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すぐさまぼくは通訳の女性に自己紹介し、ここに来た理由を告げたら、「わ~っ!ラッキーですね!!!」。
この人、岩田美保さん、ポーランド在住25年です。
日本語よりもポーランド語の方が達者でした。
そして彼女は被災地の中高生がここにいる訳を説明してくれました。
あとで引率の教師のひとり、岩手県立釜石高校の坂本秀晴教諭(空手道部顧問)に聞いた話を総合すると、東日本大震災に心を痛めたポーランド空手連盟が主となり、被災地の空手少年、少女を招聘したということです。
一行は7月24日からポーランド各地で親睦を深め、この日、クラクフに来て、日本美術・技術センターを訪れました。
8月10日に帰国の予定でした。
日本美術・技術センターは94年に建造されましたが、その建設資金は、ワイダ監督が87年に受賞した「京都賞」の賞金でした。
監督がクラクフの美術学校で絵画を学んでいた若かりしころ、ヤシェンスキ氏の日本美術コレクションを目にし、心を奪われたのだそう。
それ以来、親日家になったのでしょうね。
だからワイダ監督がセンターの生みの親といってもいいかもしれません。
ぼくはそのことを知っていたから、先ほど「京都賞」の言葉に反応したんです。
センターに被災地の子供たちが来るというので、監督がわざわざワルシャワから駆けつけ、交流会が実現したというわけ。
隣に座っている女性はワイダ夫人でした。
すべて納得!
監督にインタビューしたい旨を通訳の岩田さんに告げると、ひとまず交流が終わってからにしてくださいと言われました。
ごもっとも。
でも、それだと話が訊けなくなるかもしれない。
焦ったぼくは咄嗟にこう言いました。
「元読売新聞の記者なんです。インタビューの内容が紙面に載る可能性があります」
こういうとき、大新聞の名前が効きますねぇ。
16年前に新聞社を辞めているのに、ズルイとは思うけれど、利用せなソン。
ぼくは完全に記者になりきっていました。
執拗に彼女に食い下がると、ワイダ監督にぼくを紹介してくれました。
ありがたかった。
めちゃめちゃ感謝しています。
そのあと岩田さんが交流の場に戻り、ぼくと監督の2人きりとなりました。
緊張しているせいか、まだ頭の中は真っ白け状態で、何を訊いていいのかわからず……。
事前に取材できるなら、質問項目をあれこれと考えられるのですが、これはいい意味で突発事故みたいなものです。
とりあえず、監督の主な作品は全て観たこと、そして旅の日程をたどたどしく英語で説明しました。
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「明日、クラクフからウッジに向かいます。監督が卒業された映画大学のあるところです」
「あれは大学(ユニバーサリー)ではないですよ。学校(スクール)です」
監督は苦笑い。
中部の都市ウッジについては次回、リポートします。
「ウッジで撮られた映画……。え~と、英語で何と言えばいいのか……」
もごもごしてたら、監督が「あぁ、『The promised land』ですね」と助け舟を出してくれた。
そう、邦題で『約束の土地』(74年)。
「撮影したころとウッジの街が随分、変わっていますよ。あのころは撮影しにくかったですね」
そしてこう紡いだ。
「戦中と戦後の社会主義時代とは何もかも変わりました。こんな自由な空気が生まれようとは思いもしなかったです」
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感慨深げな監督。
このあとぼくはこう尋ねた。
「今、新作を作っているのですか?」
すると、「えぇ、ワレサの映画を構想しています」と即答。
レフ・ワレサ元大統領。
80年、北部の港湾都市グダニスクの旧レーニン造船所(現在、グダニスク造船所)で、労働者が民主化を求め、自主管理労組「連帯」を組織しました。
その運動が全土にひろがり、89年、東欧諸国で最初にポーランドで社会主義体制が崩壊したのです。
ワレサは「連帯」のリーダーとして民主化を主導し、一躍、その名が広まりました。
「この人は民主化運動のシンボルとして、ポーランドに欠かせない人物です」
ワレサの映画をワイダ監督が撮る!
これはニュースだと思い、またも血が騒いだ。
しかしそろそろ交流の場が終わり、昼食の時間が近づいているようだった。
みな場所を移り始めていた。
「進捗具合はどうなんですか?」
ぼくは早口で訊きました。
「実は脚本がうまくいかないんです。人物で斬るか、政治で斬るか。納得のいく脚本ができない。難しい。でも、何としても映画化します」
使命感にも似た気持ちが感じられました。
ワレサは政界を引退しているとはいえ、まだ健在である。
だからこそ、どう描くべきなのか難しいのかもしれない。
ロビーがざわざわしてきました。
ぼくの心もざわざわしていました。
通訳の岩田さんが戻ってきて、ワイダ監督は同じことを彼女に伝えました。
最後に、「後日、グダニスクの造船所を見に行きます」と伝えると、監督はにんまりと笑みを浮かべました。
「『鉄の男』(81年)の舞台……。懐かしい」
このあと、もう時間ですからと言われ、インタビューは終了。
わずか10分間。
核心部分のワレサの映画については、5分ほど。
それでも、1本の新聞原稿にできる手ごたえを感じ、大満足だった。
監督が席を立とうとしたとき、勇気を振り絞って、手を差し伸べると、ギュッと握手してくれました。
温かい手でした。
映画への情熱なのでしょう、きっと。
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立ち上がった監督はツエをついておられました。
厚かましくも、もう1枚、ツーショットの写真を撮らせてもらいました。
こんどは携帯で。
旅の間、携帯からフェイスブックに時々、画像をアップしていたので。
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ふと思いました、もし雨が降らなければ、このセンターに来ることはなかったと。
ちょっとしたことで人生は変わるもんやな~。
ワイダ監督へのぼくの想い(ある意味、「好きの力」!!)を「映画の神様」が知り、2人を結びつけてくれはったんや。
インタビューを終え、窓外の景色を眺めながら、そんなことを考えていました。
原稿を書いている今、それに違いないと確信しています。
何でも行動せなアカンちゅうこと。
ポーランドへ行かなければ、絶対にアンジェイ・ワイダ監督と会えなかったもの。
そんなこんなで、ぼくの人生の中で特記すべきひと時を過ごすことができました。
食事をとった子供たちは館内で浮世絵を鑑賞してから、お茶室でちょっと休憩。
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下の写真は、その日の夕方、クラクフの広場で偶然、再会したときに撮影したものです。
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楽しい話は、一気に書けますね!!
かなりの長文になってしまいました。
はい、ここでおしまい。

8月 20

ポーランド紀行(6)~アウシュビッツ&ビルケナウ強制・絶滅収容所

ポーランド紀行の6回目は、人類にとってとんでもない「負の遺産」のリポートです。
はっきり言って、見るのに覚悟が要りますが、目をそむけず、写真を見入ってほしいと願っています。
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古都クラクフからバスに揺られ、1時間半ほどでアウシュビッツに到着しました。
ポーランドではオシフィエンチムと言います。
時折、小雨がぱらつく陰鬱な天気。
アウシュビッツ収容所から発せられる重い空気をそのまま反映させたような空模様でした。
第2次大戦勃発の翌年、1940年、ポーランドを占領していたナチス・ドイツがポーランド軍の基地だったこの地を強制収容所に改修しました。
当初はポーランド人の政治犯(反ナチス活動家)を収容していましたが、独ソ戦が始まってから、ソ連軍の捕虜やロマ(ジプシー)を送り込み、42年からユダヤ人の絶滅センターとして機能しました。
これはロマの人たちです。
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非ユダヤ人であっても、ナチス占領地区の障害者や同性愛者らも収容されました。
強制収容所は、ヒトラー直属の親衛隊(SS)の管轄下にありました。
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配置図を見ると、それほど大きくはありません。
実はアウシュビッツ収容所はここだけではなく、3か所あったんです。
ここが第1収容所(本収容所)で、最大2万人を収容していました。
第2収容所が、北へ3キロ離れたビルケナウ収容所(ポーランドではブジェジンカ)。
このあと訪れます。
そして第3収容所が、ここから南6キロのモノビツェ収容所です。
その他、周辺に副収容所が47か所もあったといわれています。
これらを合わせてアウシュビッツ収容所と呼ばれているわけです。
ここ第1収容所と第2収容所が博物館として保存されており、79年にユネスコの世界遺産に登録されました。
正門で、あの有名な文言が目に飛び込んできました。
「ARBEIT MACHT FREI(働けば、自由を得られる)」
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これをだれが信じたのでしょう。
今回の写真は全体的に暗いトーンです。
雨雲が覆い、紫外線量がかなり少なかったせいですが、犠牲者の御霊の影響もあるのではと、今、思っています。
敷地内に足を踏み入れると、体がこわばってしまいました。
映画のセットのようにも見えましたが、ここで想像もできない蛮行、虐待、処刑が日常的に行われていたと思うと、居たたまれなくなるのでした。
いろんな角度から写真を撮りました。
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ナチス・ドイツが42年に「ユダヤ人問題の最終的解決」を宣言します。
つまり絶滅(ホロコースト)、民族の完全浄化です。
それに伴って、本国ドイツをはじめ、ポーランド、チェコ、オランダ、イタリア、ノルウェーなど占領地や同盟国に89か所の強制収容所が設立され、計600万人のユダヤ人が犠牲になりました。
あまりにも数が多くて、ピンときませんが、アイルランドの人口が450万人ですから、ひとつの国が消滅したといえる規模です。
数ある収容所の中でもアウシュビッツは、労働よりも絶滅を主眼にしていたので、後世に名が残ったのです。
150万人の命がここで失われたといわれています。
そのうちポーランドのユダヤ人が30万人でした。
一番多かったのがハンガリーのユダヤ人で、43万人もいました。
あとフランス(6万9000人)、オランダ(6万人)、ギリシア(5万5000人)……と続きます。
彼らは、劣悪という言葉では説明できないほど厳しい環境の中で暮らしていました。
このベッドに5~6人が一緒になって寝ていたらしいです。
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ガス室です。
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シャワーを浴びせるといって、この部屋に集団で入れ、チクロンBという毒ガスで殺していたのです。
これがチクロンB。
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チクロンBの空き缶。
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この毒ガスを最初に使ったのはソ連軍の捕虜でした。
ナチス・ドイツはスラブ人も下等民族とみなし、しかもロシア人は憎むべき共産主義者とあって、ユダヤ人並の扱いをしていたそうです。
ガス室は焼却炉を併設していました。
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毎日、煙が立ち上っていました。
それを見て、収容されている人たちはどう思っていたのでしょうか……。
ガス室と焼却炉の外観です。
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1945年1月27日、ソ連軍がアウシュビッツ収容所にやって来たとき、7000人のユダヤ人が生き延びていたそうです。
ソ連兵がガス室を発見したとき、いったい何のために使われていたのかわからなかったといわれています。
まさか人間を大量に殺戮していたとは……。
ガス室以外でも、反抗した者や親衛隊の気にくわなかった者らが、いとも簡単に処刑されていました。
脱走を試みると、同じ部屋にいた人間を皆殺しにしました(連座制)。
これは「死の壁」、銃殺の場でした。
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絞首刑も、見せしめで行われていました。
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この狭いスペースに4~5人立たせたまま3日ほど放置するという刑もあったそうです。
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他に何日も飲食物を与えない飢餓刑も行われていました。
犠牲者たちの遺品の数々。
トランクです。
ここに運ばれてきた途端、没収されました。
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靴と義足。
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これは女性の髪の毛……、あまりの衝撃でカメラがぶれてしまいました。
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涙が出るものとばかり思っていましたが、とにかく想像以上に強烈だったので、むしろ放心状態になりました。
と同時に、有能なドイツ人がなぜこんなアホなことをやってしまったのかと大きな疑問符が頭の中に浮かんできました。
ここまで人間を虫けら同然に扱えるものなのか……。
収容所を見学していると、イスラエルから来たユダヤ人の青年グループを目にしました。
イスラエル国旗を羽織って……。
みな無言でした。
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ガイド役のポーランド人青年によると、ドイツの高校では修学旅行などでここを訪れる者が少なくないそうです。
夏休みの間、収容所の補修工事のボランティアに励むドイツの大学生もいるらしいです。
第1収容所の見学を終え、重い気持ちを抱いたまま、第2収容所のビルケナウへ向かいました。
こちらはでっかい!!
甲子園球場の20倍ほどの大きさ。
9万人も収容でき、ナチスの収容所の中では最大規模でした。
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引込み線の向こうに監視塔が建っています。
ホロコーストの全貌に迫ったフランスの映像作家・ジャーナリスト、クロード・ランズマンの長編ドキュメンタリー映画『ショアー』(1985年)で象徴的に映されていた光景です。
『シンドラーのリスト』もここで撮影されています。
ヨーロッパ各地からユダヤ人が貨物列車で運ばれてくると、親衛隊の医師によって選別されました。
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まだ体力の残っている男は、とりあえず収容所へ。
余力のない男、女性、子供、老人、病人、障害者はそのままガス室行きでした。
ここは100%絶滅収容所。
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移送された人たちを、ガス室に連れて行くまでに収容した建物の中です。
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ここのガス室は第1収容所のものに比べてはるかに大きかった。
しかしソ連軍が来る前、親衛隊が犯罪隠蔽のために破壊しました。
あえて66年前のまま残してあります。
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ユダヤ人たちが吟じる鎮魂歌が耳から離れません。
ぼくにはお経のように聞こえました。
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破壊される前のガス室の全景と焼却炉です。
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慰霊碑には各国の言葉で哀悼を示す文言が書かれていました。
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ふたつの収容所を見たあと、正直、頭が真っ白になりました。
思考力ゼロ。
こんな経験、初めてでした。
今、こうして原稿を書いていても、まだ考えがまとまりません。
ただ、人間というものは、状況次第で人間でなくなってしまう。
そういう生き物なんだと痛感しました。
ホロコーストに関しては、戦争うんぬんだけで語れないということもわかってきました。
人間の本質に関わる問題……。
疲れました。
ここで止めておきます。

8月 17

ポーランド紀行(5)~『シンドラーのリスト』の舞台

今回のポーランド旅行のテーマは、戦争と映画です。
映画の方は、ポーランド映画界の巨匠アンジェイ・ワイダ監督の作品の舞台を巡るのが主でした。
しかしハリウッドを代表するスティーヴン・スピルバーグ監督の代表作『シンドラーのリスト』(1993年)が古都クラクフの物語だったので、撮影地や関連スポットを訪ね歩きました。
『シンドラーのリスト』は、第2次大戦中、クラクフでホウロウ容器製造工場を経営していたドイツ人実業家、オスカー・シンドラー(1908~74年)が絶滅収容所へ移送されるユダヤ人約1200人を自社の従業員として雇い、命を救ったという物語です。
ユダヤ系アメリカ人のスピルバーグ監督が使命感を抱いて撮ったといわれる渾身の1作。
描き方が偏っているとか、演出に甘さがあるとか、いろいろ批判されてはいますが、ホロコースト映画としては見応えがあったと思っています。
ポーランド紀行の5回目はそのルポです。
戦争と映画の2つのテーマを同時に取材できました。
前回、お伝えしましたクラクフ旧市街の南側にあるユダヤ人地区カジミエーシュから、ヴィスラ川を南へ渡ったところに工場街が広がっています。
そこにシンドラーの工場が残っていました。
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ペタンとした白い建物です。
正門は当時とほとんど変わっていません。
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窓ガラスには、従業員として雇われていたユダヤ人の顔写真が貼られています。
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1939年9月、第2次大戦の開戦直後、ポーランドに進駐してきたナチス・ドイツ軍がクラクフにも来ました。
すぐにユダヤ人への迫害が始まります。
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そして首都ワルシャワと同様、ゲットー(ユダヤ人隔離居住区)が41年に設定されました。
その場所が、シンドラーの工場の西側にあるポドゴルゼ地区でした。
今でも当時の建物がかなり現存しており、人が住んでいます。
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大戦前、クラクフには22万5000人のユダヤ人がいましたが、すべてゲットーに強制移住させられました。
ホロコーストによって、生き残ったのはわずか1万5000人だけ。
下はゲットーがあった場所を示す地図です。
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地図のなかのエリアを歩いていると、ゲットーの壁を見つけました。
レンガ造りのワルシャワのそれとは違って、コンクリート製でした。
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ゲットーができた当初、厳しいながらも、比較的、生活は安定していたそうです。
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シンドラーは戦前、ユダヤ人が所有していたホウロウ工場を買い取り、当初はポーランド人を従業員に雇っていましたが、ゲットーができたころからユダヤ人を“労働力”として使うようになりました。
基本的にタダ働きさせていたわけです。
それでも工場で働いて限り、殺されることはなかったのですから、ユダヤ人にとって楽園に思えたでしょうね。
ドイツ側からは軍需工場と見なされ、シンドラーは大きな恩恵を受けていたようです。
しかし43年にゲットーの南側にプラショフ(クラクフ)労働収容所が建造され、状況が変わりました。
ゲットーが閉鎖され、ユダヤ人がそこへ移送されたのです。
甲子園球場の20倍の広さがあり、最大2万2000人が暮らしていました。
収容所の中に採石場があり、大半がその労働に従事しましたが、病人、老人、子供ら働き手とならなかった者は、アウシュビッツ=ビルケナウ強制・絶滅収容所へ送られたといわれています。
映画『シンドラーのリスト』のなかでも、石を切ったり、運んだりしている囚人の様子が描かれていましたね。
下の写真はプラショフ収容所です。
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シンドラーの工場勤務のユダヤ人も石切りの仕事に就かされ、次第に工場が稼動しなくなっていきました。
ホウロウより石の方が需要があったのでしょう。
と同時に、プラショフ収容所からアウシュビッツ=ビルケナウ強制・絶滅収容所へ移される者が増えてきました。
さらに収容所のアーモン所長による囚人への虐待がエスカレートしていきました。
そのときの異常な状況も映画で描写されていました。
戦後、プラショフ収容所は完全に破壊されました。
訪れると、野原になっていました。
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説明版です。
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慰霊碑があちこちに立っていました。
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反ナチス活動家のポーランド人もここで命を落とした人が少なくなかったようで、キリスト教(カトリック)の慰霊碑もありました。
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かつて部下として働いていたユダヤ人への同情からか、あるいは労働力の確保のためか、ナチスの党員であったシンドラーが、何と彼らの救済に立ち上がったのです。
故郷のズデーデン地方(現在のチェコ)に新たなホウロウ工場を買い、そこの従業員としてプラショフ収容所のユダヤ人をピックアップしました。
それが「シンドラーのリスト」です。
リストに挙がった者は、貴重な労働力になるとの理由で、全員、生命の保証がなされました。
かつてのホウロウ工場は、現在、ナチス占領下のクラクフを解説する博物館になっています。
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これはポーランド軍の小型戦車です。
オモチャのように見えました。
これじゃ、ドイツ軍の強固なパンサー戦車を前にするとひとたまりもありません。
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死刑執行人? しょぼくれたヒトラーの人形。
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シンドラーの写真もありました。
ユダヤ人労働者を前にして、何やら説明してるところです。
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馬が好きだったそうです。
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再現されたシンドラーの執務室。
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正門の裏側には、ホウロウを乗せた荷車が置いてありました。
ポーランドブログ用 083
映画『シンドラーのリスト』のほとんどがクラクフで撮られました。
プラショフ収容所はセットでしたが。
スピルバーグ監督は撮影前、ポーランドへ向かい、アンジェイ・ワイダ監督からこんなアドバイスを得たそうです。
「当然、モノクロで撮影すべきです。そういう時代だったから」
なるほど!
次回は、かなり厳しい世界を紹介します。
アウシュビッツ=ビルケナウ強制・絶滅収容所です。

8月 13

ポーランド紀行(4)~古都クラクフ

ポーランド紀行の4回目は古都クラクフです。
首都ワルシャワの中央駅から特急に乗って南部の古都クラクフに向かいました。
距離にして250キロ(大阪~尾道)なのに、3時間もかかりました。
どんな特急や~!
クラクフ本駅は存外ににぎわっていました。
駅の地下通路にはパン、本と雑誌、雑貨、みやげ物などを売る店が並んでいます。
ポーランドブログ用 055
人口約75万の地方都市ですが、14~16世紀に首都として君臨したので、風格があります。
何といっても、第2次大戦中、ポーランドの都市の大半がドイツ軍とソ連軍によって壊滅的な打撃を受けたのに、クラクフはほとんど戦災に遭わなかったのです。
開戦当初(1939年)、ドイツ軍の空襲にさらされましたが(軽微なものでした)、ドイツ軍の軍司令部が置かれたことから、中世の街がそっくりそのまま残ったというわけです。
ラッキーでした!!
旧市街に足を踏み入れると、タイムスリップしてしまいます。
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ポーランドブログ用 057
ユネスコの世界遺産に登録(1978年)されています。
たしかにワルシャワの戦後、造られた中世の街とは違って、ホンマもんの佇まいが感じられます。
目抜き通りを歩いていると、多くの路上ミュージシャンが腕(ノド)を競っていました。
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この女の子はビートルズばかり~♪♪
結婚式を挙げたばかりの幸せなカップルにも会えました。
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これまで「ケルト」の取材などで、数え切れないほどヨーロッパを旅していますが、不思議なことにいつも必ずウェディング姿を目撃します。
旧市街のど真ん中にある広い中央市場広場は、ヨーロッパの街ならどこにでもある観光客がたむろする広場です。
ポーランドブログ用 059
ポーランドブログ用 061
こういうところのバルやカフェでビールやコーヒーを飲むと、値段がちと高いですよ。
ちょっと外れたところの方が、絶対、雰囲気もサービスもいい。
ポーランドは95%がカトリック信者です。
戦前は、カトリック(主にポーランド人)、ユダヤ教(ユダヤ人)、プロテスタント(主にドイツ人)、東方教会(主にロシア人)といった具合に多民族、多宗教でした。
それがナチス・ドイツによるホロコーストや国境線の変更などによって、戦後はポーランド人のカトリック国になってしまいました。
だからローマ法王の写真をあちこちで見かけます。
ひょっとしたら、ヨーロッパで一番、敬虔なカトリック国なのかもしれません。
政治に対するカトリック勢力の影響力が大きいです。
前の法王ヨハネ・パウロ2世(在位1978~2005年)はポーランド人でしたしね。
当然、司祭や修道士、修道尼もよく目にしました。
ポーランドブログ用 149
広場からさらに南へ下ると、ヴァヴェル城がデンと構えています。
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ここは観光スポットです。
城の西側を流れるヴィスワ川の対岸に、浮世絵を5000点も所蔵する日本美術・技術センターが建っていました。
そこでポーランド映画界の巨匠アンジェ・ワイダ監督と奇跡的な出会いがあったのですが、そのことは後日、詳細に記述します。
ぼくは観光地というのは正直、好きではないので、城の外見だけを見て、どんどん南下していきました。
しばらくすると、旧市街を抜け、街の雰囲気がガラリと変わりました。
戦前、ユダヤ人が居住していたカジミエーシュ地区です。
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かつてクラクフには22万5000人のユダヤ人が暮らしていましたが、ホロコーストを生き延びたのはわずか1万5000人だけ。
今では1万人いるかどうかです。
それでもこの地区は独特な空気が漂っています。
非常に庶民的なので、ぼくにはピッタリ合いましたが……。
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さらに南へ向かい、高台から街を一望。
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歴史のある街だということが、ひと目でわかります、クラクフは。
しかしそこにも大戦中、言葉で言い尽くせぬほど哀しい出来事がありました。
次回は、スティーヴン・スピルバーグ監督の大作『シンドラーのリスト』(1993年)の舞台を巡ったリポートです。
あの映画は、戦時中のクラクフの物語だったのです。

8月 11

ポーランド紀行(3)~食べモノ、飲みモノ

ポーランド紀行の3回目は、重たかった前回とはガラリと打って変わり、飲食です。
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これ、美味しそうでしょ?
実際、めちゃうまかったです。
ビゴスというポーランドの代表的な料理。
キャベツ、ザウアークラウト、ひき肉を煮込んだもので、サッパリ感とコッテリ感が絶妙に絡み合っています。
写真のビゴスはレストランで食べたものです。
シャレ込んでパンを容器代わりに使っていますが、普通はシチュー皿で出されます。
屋台ではプラスチックの皿でした(右側)。
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左の黒っぽいのが臓物の煮込みです。
スコットランドの郷土料理ハギスとよく似た味だったので、おそらくヒツジでしょう。
ぼくには屋台のビゴスのほうが口に合っていました。
味が濃厚で。
なにせこんな大鍋で煮込んでいるんですからね。
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ビゴスの値段は、レストランでは20ズウォティ前後、屋台ではその半分。
1ズウォティは約30円なので、それぞれ600円と300円ほどになりますね。
ポーランドの物価は、日本人の感覚からすれば、3分の1くらいで、本当に安く感じます。
これも国民的な食べ物です。
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餃子にそっくりでしょ?
皮は餃子とほとんど同じで、具はひき肉、チーズ、キノコなどいろいろ。
ニンニクは使っていません。
上にソースやタレをかけて食べます。
なかなかいけますよ。
何だか「王将」にいるような気がしました。
「コーテル、イーガー!」~(笑)
これも屋台のほうがうまかった。
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ほんま、焼き餃子ですね。
スープも欠かせません。
これはジューレックといいます。
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発酵したライ麦を使った一番ポピュラーなスープ。
酸味がうま味になっています。
この写真のスープは具が少ないですが、普通はゆで卵、ソーセージ、ハム、ジャガイモなどが入っています。
ポーランドの食べ物はハズレがなかったです。
どれも美味しく、食生活の偏差値はかなり高いと思います。
日本人の口によぉ~合います。
パンは、オーストリア産の塩パン、シュレッテルがよく食べられていました。
屋台でも売られています。
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総じて屋台の食べ物がうまかったですね。
北部の港町グダニスクにはズラリと立ち並んでいて、壮観でしたよ。
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そうそう、おやつ代わりにヒマワリの種をパクパクと口に入れている人をよく見かけました。
だから、市場や屋台で種をいっぱいつけたヒマワリそのものが売られていて。
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ビールのアテ(ツマミ)にうってつけです。
そのビール、日本とおなじタイプのラガー(ピルスナー)が大半で、地ビールが多いです。
ヨーロッパに行くと、ぼくはカフェやバールでは、よくワインをオーダーするのですが、今回はビール党になりました。
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なかなかコクがあって……、エビス・ビールとそっくりなビールもありました。
真夏なのに、ホットワインを味わいましたよ。
ヨーロッパの夏は、晴れておれば、ほんとうに爽やかで、心地がいいです。
湿気がないので、ぼくには楽園と思えるほどでした。
ところが、一旦、天気がぐずつくと、途端に気温が下がってきます。
寒い、寒い。
そんなときは、ベルモット(強化ワインの一種)を温め、レモンを添えたホットワインが欲しくなります。
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上のホットワインは、養命酒のような味でした。
おかげさまで、いっぺんに体が温まりました。
アルコールの王様といえば、ポーランドではウォッカです。
ウォッカはロシアで誕生したと思われていますが、ポーランドが原産地です。
薬草の入ったズブロッカは日本でもよく知られていますが、現地ではごまんと種類があり、とてもやないけれど、全て制覇することができませんでした(当たり前や!)。
ウォッカとリキュールのボトルを一挙、公開~!!
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珍しいものが多く、バーテンダーの人には目に毒かもしれませんね(笑)。
下のウォッカは熟成感があり、まったりした味わいに酔わされました。
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そんなわけで、ポーランドでは食べること、飲むことに関しては90点でした。
足らない10点は~???
お店のサービスがいまひとつのところが所々、ありましたので。
その格差が激しい。
22年前まで頑なな社会主義体制だったので、しかたがないかもしれませんが、そろそろサービスが均一化されることを期待しています。

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