Category Archive: バルト3国レポート

4月 10

バルト3国レポート(20)最終回~

タリン(4)
久々にバルト紀行のレポートです。そして今回で終了です。
リトアニアの首都ヴィリニュスを皮切りにラトヴィアを経て、エストニアの首都タリンにいたる旅の間、常に心を和ませられたのが若い女性の笑顔でした。
ロシア帝国、ナチス・ドイツ、ソ連などの大国に蹂躙されてきた悲痛な歴史を抱えるバルト3国にはどこか暗鬱な空気が感じられます。
けれどもそういう「負の遺産」をバネにして、自国をなんとかグレードアップさせていこうという意気込みが伝わってきました。
その象徴が女性たちの笑顔でした。
ハープサル(3)
街角で彼女たちと視線が合うと、みな素敵な笑みを返してくれました。
とりわけエストニアの女性は美人が多く、愛くるしかった~♪
タリン(7)
ぼくはヨーロッパのほとんどの国を巡ってきましたが、バルト3国の女性の笑顔が一番だと思っています。
そんなわけで最終回のレポートは、タリンで活写した女性たちで締めくくりました。
沈滞する経済、高い失業率、ロシアとの緊張関係……。バルト3国の現状は決して明るくはないのだけれど、国民にスマイルがある限り、それぞれ小国としての知恵を生かし、着実に発展していくでしょう。そう強く願っています。
非常に淡彩な風土なのに、妙に刺激を与えてくれたバルト3国、いい旅を体験させてくれてありがとう~!!

3月 28

バルト3国レポート(19)~

阪神、きょうは敗れたけれど、横浜との開幕3連戦で2勝1敗。まぁ、善しとしましょう。
打撃のチームだから、とにかく打ちまくっていかなしゃーない!
さて、バルト紀行です。
エストニアの首都タリンをご案内します。
タリン(6)
旧市街は城壁に取り囲まれており、その中に足を踏み入れると、中世にタイムスリップしたような錯覚に陥ります。
12世紀にデンマークに占領されたとき、エストニア人が「ターニ・リン(Taani Linn)」と呼んだことから、タリンの名が生まれました。意味は「デンマーク人の町」です。
その後、13世紀半ばにドイツの商人が住み着き、ハンザ同盟の都市として発展しました。そのころが一番、隆盛を誇っていたといわれています。
リトアニアのヴィリニュス、ラトヴィアのリガ、エストニアのタリン。バルト3国の首都はすべて世界遺産に登録されています。
これら3都市のなかで、「おとぎの国」のようなたたずまいをかもし出しているのがタリンです。
1991年までのソ連時代は陰鬱な空気に包まれ、街が荒廃していたそうですが、今や観光客であふれ、非常に華やいだ雰囲気が漂っています。
タリン(1)
宮崎アニメの『魔女の宅急便』(1989年)の舞台~??!!
ぼくはそう直感しました。
相棒の黒猫ジジを連れ、ほうきにまたがってこの街の上空を自由自在に飛び交うキキの姿がイメージできたからです。
ジジ新
    ↑ ↑ 可愛いジジ!?
でも、違うみたいです。スゥーデンのストックホルムやポルトガルのリスボンなど欧米の複数の町をモデルにしたとか。
それでも、『魔女の宅急便』の街に思えてなりません。
なにか目的意識を持って旅をする~。
それがぼくの旅の信条ですが、タリンでは気の向くまま、足の向くままブラリ、ブラリと街中を散策しました。
どこも絵になる光景で、足をとめては見惚れてばかり。
そんな調子だったので、あっと言う間に1日が過ぎてしまいました。
街並みに惚れたのは、リスボンとここタリンだけ。
めちゃ気に入りました~。
そういえば、きょう千秋楽だった大相撲の大阪場所でエストニア出身の力士、把瑠都が健闘しましたね~。大関です。ご立派~!!

3月 18

バルト3国レポート(18)~

エストニアのヴォルムスィ島で、予想をはるかに上まわる数のケルト十字架を眼にしてから、村のカフェでビールと軽いランチを取りました。
ヴォルムス(7)
その店でタリンから遊びに来たという青年と知り合いました。エストニアの若者は英語が堪能です。それによく喋る。
ついつい話し込んでしまい、時計を見ると、ハープサル行きのフェリーの出航時間まであと30分に迫っていました。
ヤバイ!
青年に別れを告げ、あわててサドルにまたがり、来た道とはちがって森のなかの土道を突っ走りました。
近道と思ったのがいけなかった。前日の雨で道はぬかるんでおり、何度も自転車を押すハメに……。
結局、桟橋に到着したときには、フェリーははるか洋上でした。
乗り遅れた~!!
次のフェリーまで4時間あったので、のんびりとサイクリングで島を巡りました。
森と平原のなかにポツンポツンと集落が点在しているだけで、ほんとうに静かな島です。
北側の道路を走行していると、原っぱに木や石の造形物が建っていました。
ヴォルムス(9)
ヴォルムス(10)
それが日本の土偶のようにも見え、なかなか面白い。
芸術家が住んでいるのかな。
その近くに風車があり、見入っていると、たくましそうなおばちゃんが笑みを浮かべて近づいてきました。
ヴォルムス(11)
そして英語で「風車のなかが博物館になっています。どうぞ入ってください」と話しかけ、半ば強制的に連れて行かれました。
たしかにスウェーデン移民の歴史を解説したミニ博物館でした。このおばさんもその末裔でした。
「日本人ははじめて。こんどはスウェーデンを旅してください」
写真を撮らせてほしいと言うと、彼女は両手で顔を覆い、首を横に振りました。
かわいいおばちゃんだ。
すっかりリフレッシュでき、フェリーでハープサルへ。ホテルで預かってもらっていた荷物を受け取り、バスで首都タリンへ向かいました。
タリンに到着したのは午後11時近く。緯度が高いとはいえ、さすがに日はとっぷり暮れ、街は闇に包まれていました。
明日はタリンをじっくり散策しよう。そう思って深い眠りに就きました。

3月 12

バルト3国レポート(17)~

エストニアの西の海に浮かぶヴォルムスィ島へ渡りました。海とはもちろん、バルト海です。
ハープサルからバスで本土の西端にあるロフクラの波止場へ向かい、そこからフェリーに乗り、約50分で島に着きました。
ハープサル(6)
この島の西にはヒーウマー島、その南にはサーレマー島があり、そちらの方に行くフェリーもあります。
観光客はほとんどヒーウマー島とサーレマー島へ足を運ぶようです。
ヴォルムスィ島の桟橋の近くに売店がありました。そこで自転車をレンタルして、いざ島巡り~♪
平たんな島です。一番高いところでも13メートルしかありませんから。
だから風がもろに当たりますが、道はちゃんと舗装されており、快適です。
島の中心地フーロを目指してペダルをこぎました。
途中、レンガ造りの古めかしいロシア正教の教会が無残な姿を呈していました。
ヴォルムス(1)
13~14世紀、この島にスウェーデンからの移民が住み着きました。そのせいか、ハープサル以上に北欧の息吹が濃厚に漂っているような気がしました。
第2次大戦前には約2500人が住んでいたそうですが、今は300人ほど。過疎の島です。
フーロのはずれにあるヴォルムスィ教会の墓地に入った途端、身体が震えました。
ヴォルムス(2)
円環と十字架を組み合わせたケルト十字架が、芝地に数え切れないほど立ち並んでいたからです。
これを見るためにわざわざ島にやって来たんです。それにしても多すぎる~!!
ヴォルムス(3)
ざっと数えると、300基は優にありました。円が欠けていたり、土中に埋もれていたり……。
すべてお墓。1800年代のものが圧倒的に多いです。
本家本元のアイルランドのケルト十字架は、高さが2メートル以上あるのがざらで、そのためハイ・クロスとも呼ばれていますが、ここのケルト十字架は高さが1メートル以下と小振りです。
ヴォルムス(5)
ひとつひとつの十字架には迫力があまり感じられないけれど、これほど多くのケルト十字架を見たのは初めてだったので、ぼくはかなり興奮しました。
アイルランドでもこれほど数がそろって立ち並んでいるところはありません。
どうしてエストニアの辺鄙な島に……?? 不思議ですね。
このとき教会にはだれも人がいなかったので、ぼくは疑問を晴らすことができず、帰国後、この教会とタリンにある国立博物館に質問状を送ったのですが、いまだに回答が来ません。
おいおい、いったいどないなってんねん!?
そのうち忘れたころに回答が送られてくるでしょうが、どうやら中世からアイルランドと交易していたようなので、そのときにケルト十字架がもたらされたのかもしれませんね。
ともあれ、バルト3国でケルト十字架に囲まれ、計り知れないほどの満足感を抱きました~♪♪

3月 07

バルト3国レポート(16)~

文化の香りが漂うエストニアのタルトゥからバスで首都タリンへ向かった。
2時間20分のバスの旅。車窓の光景は草原と森ばかりで、単調と言えばそれまでですが、信じられないほど緑が多いなぁと感心しきり。眼にも優しかったです。
世界遺産に登録されているタリンについては後ほどふれることにし、旅は西へと進みます。
タリンのバスターミナルから西海岸のハープサルという町へ行きました。その道中も緑いっぱいでした。
ハープサル(1)
ハープサルは13世紀にドイツ人に支配され、のちにスウェーデン人が多く住み着き、バルト的な雰囲気があまり感じませんでした。
家の造りもどことなく北欧風で……(といっても、北欧にはまだ行ったことがないので、裏を取っていませんが)。
町の真ん中にある「僧正の城」(13世紀後半)という名の城址を見物し、北側に伸びる岬を一周しました。
ハープサル(4)
この町には人が住んでいるのかと思わせるほど、だれにも出会いませんでした。
静まり返っています。曇天とあって、ひじょうに寒々しい。
まぁ、エストニアの総人口が135万人ほどですから、とにかく人が少ないです。
そんななかビーチで泳いでいる人を見かけました。
海水に手を浸すと、指先がかじかんでしまったほど水が冷たかった~!!
泳いでいる人はよほど体温が高いにちがいない。
途中、海岸沿いのプロムナードに意味ありげな石のベンチがありました。
ここにチャイコフスキーが坐っていたというのです。そう、ロシアのあの著名な作曲家です。
この先に温泉があって、ホテルや療養施設が建っています。エストニアではかなり知られた温泉とか。
その割には観光客が少なすぎる……。夏のシーズン真っ盛りというのに。不況の影響なのかな?
1867年の夏、チャイコフスキーがここに保養に来て、夕方になるとこのベンチに腰をおろし潮風に当たっていたそうです。
ハープサル(5)
ぼくも坐りました。が、お尻が冷え、すぐに立ち上がりました。
このベンチに坐るために、わざわざハープサルに来たわけではありません。
明日、ヴォルムスィ島へ渡るのです。
どうしてそんな僻地の島へ行くのか。それはぼくの執筆テーマの「ケルト」と大きく関わっているからです。
次回、きっちり報告します。

3月 01

バルト3国レポート(15)~

きょうから3月です。もう春ですよね~♪
バルト3国のレポートを書きます。
フェスティバルを楽しんだラトヴィアの古都(といっても田舎の町ですが)ツェースィスから列車でエストニアへ入り、終着駅のヴァルガで下車しました。国境の町です。
町の北半分がエストニア、南半分がラトヴィア。真っ二つに分断されています。でもいまは国境検問所なんてなく、自由に行き来ができます。
そんなヴァルガの町からバスでエストニア第2の都市タルトゥへ向かおうとしたのですが、ラトヴィアのお金(ラッツ)しかなかったので、窓口で切符を買えなかったのです。エストニアの通貨はクローンです。
この日は日曜日。銀行が開いていません。困った、困った……!!
受付のおばさんに相談すると、ラトヴィアの方に行ったら大きなスーパーがあるので、そこで両替してもらえるかもとアドバイスを受けました。
さっそく眼に見えない国境を越え、ラトヴィアへ足を入れ、スーパーの店員に両替してほしいと告げたら、きょうは日曜日だから無理と言われ……。ガックリ!
どうしようかと浮かぬ顔をしていたら、サイクリングをしている男性グループから「表のキャッシング・マシーンで両替できるよ。クレジット・カードを持っているんでしょ?」と声をかけられた。彼らはエストニア人でした。
ありがたい。そういう手があったのだ。
難なく両替でき、バスで1時間45分揺られて、タルトゥに到着。
1632年に創設されたタルトゥ大学が町の真んなかにあり、文化的な雰囲気が充満しているひじょうに落ち着いた町です。
タルトゥ(3)
エマユギ川がゆったりと流れ、ラエコヤ広場には観光客が集い、西のトーメの丘には大聖堂跡や旧天文台などがあり、町全体が公園のようなたたずまい。
タルトゥ(4)
タルトゥ(1)
アイルランドで生まれ、イギリスで文学的才能を発揮したオスカー・ワイルドの銅像(左側)があったのには驚きました。
タルトゥに来たことがあるのでしょうね。
タルトゥ(2)
街中が閑散としていました。活気がまったく感じられない。日曜日だからかな。
大学のカフェで夕食をとりました。牛肉の煮込みがすごく美味だった。
そこで見かけたエストニア人の女の子が妖精のように可愛かった~♪
タルトゥ(5)
おっとりした空気がエストニアに漂っていました。

2月 20

バルト3国レポート(14)~

久々のバルト3国レポートです。忘れていたわけではないし、ギブアップしたわけでもないです。最後までちゃんと報告しますよ~。
きょうはラトヴィアの首都リーガから列車で1時間50分揺られて到着した古都ツェースィスのルポです。
古都といっても、田舎町そのもの。ほんとうに小さな町で、30分もあれば、十分、見てまわれます。
ツェースィス(1)
駅で楽団員の演奏に出迎えられました。訊くと、町のお祭でした。
ラッキー! ラトヴィアのフェスティバルを見られるとは。
7月25日。大阪では天神祭やな~と思いながら、ちょっと舞い上がりました。
ツェースィス(4)
ツェースィウs(5)
中心部にある統一広場の架設ステージ上でロックがガンガン演奏され、通りには食料品、工芸品、CD&DVD、雑貨、アンティーク、綿アメ、絵画などを売る露店がびっしり立ち並んでいました。
思いのほか賑やかで、見物客も多かった。途中からスコールのような強烈なにわか雨に遭遇したのに、だれも傘なんぞささず、びしょびしょになって祭りを楽しんでいました。
東洋人がよほど珍しいのか、常に住民の視線を感じていました。そのうち慣れてきましたが……。
眼と眼が合うと、みなニッコリと笑みを浮かべてくれたので、心が和んだ。シャイな人が多いのかな。
「どこから来たの?」と数人の若者から英語で訊かれました。若者は概して英語を喋ります。年配者はロシア語が堪能な人が多かったです。
ツェースィス(2)
祭りの喧騒から抜け、ツェースィス城址を見学しました。13世紀、ドイツ人の騎士団によってきずかれた城です。
ラトヴィアの団体客が来ていました。おばちゃんばかり。大声を出して、ケラケラ笑っています。
塔に登ろうとボケーッとしながら並んでいると、太っちょのおばちゃんに、お腹で押しのけられました。
「あんた、ぐずぐずせんと、はよ登りぃな~」と言いたげに。たくましい。
城の裏手にある野外劇場に足を運ぶと、劇団員がミュージカルのリハーサルに取り組んでいました。
それがかなりハイレベルで、ずっと観客席で見入ってしまった。ブロードウェイのミュージカルを観ているような気すらしました。夜に公演があるとか。
ツィースィス(6)
ダンスの場面ではぼくも誘われ、美女と手と手を取って踊りまくった。
阿波踊り風に踊ったら、結構、受けた~!!
そんなこんなでラトヴィアの天神祭を満喫しました~♪♪

2月 01

バルト3国レポート(13)~

2月になりました。1年の12分の1が過ぎ去ったということ~です。
「ケルト」紀行の写真集(ヴィジュアル版)=上下巻=を春に出すことになり、その作業にずっと没頭しておりまして……。
元日返上で仕事をしていたのも、そのためです。ほんまに情けなかったです……。
気がつけば、バルト3国リポートが昨年の12月22日以降、ストップ状態になったまま。これから気が向けば、時間的にゆとりがあれば、ぼちぼち書き綴っていきます。
   *     *     *     *     *     *
今日はラトヴィアの首都リガの考古学博物館で見た展示の数々を~。
リガ展示(1)
リガ展示「1」
バルト3国はケルトと結びつきはないはずなのですが、古代ケルト人が身につけていたようなネックレスがあったり、ケルト十字架(円環を組み合わせた十字架)とそっくりな十字架があったり。
ネックレスは、オーストリアで見た高貴なケルト人女性の埋葬品とそっくりでした。
古代、ケルト揺籃の地、中央ヨーロッパとバルト地域には何らかのつながりがあったのでしょうか。あるいは、どこにでもある装飾品だったのでしょうか。
こんなことを考えると、楽しくて楽しくてしかたがありません。
ケルト十字架は、次に訪れるエストニアで驚くべき光景を眼にしました。
すごい数なんです。アイルランドでも見たことのない十字架群でした。お楽しみに~♪
リガ展示(3)
バグパイプは、ヨーロッパ各地で見ています。何もスコットランドだけのものではないです。「ケルト」の楽器というイメージが強いですが。
スペインのガリシア(ガイタ)、フランスのブルターニュ(ビニュー)、ブルガリア(ガイジィ)……。
名前と形状はいくぶん異なりますが、みな羊の皮を使ったバグパイプです。
ラトヴィアのそれは、かなり古いものでした。昨今はあまりバグパイプを演奏する人がいないらしいですが。
ヨーロッパに旅に出向くと、ぼくは必ず考古学博物館に立ち寄ります。その国の赤ん坊のころを知りたいと思うからです。

12月 22

バルト3国リポート(12)~

リガ映画博物館(2)
ラトヴィアの首都リガで、意外な事実を知りました。
映画史にさん然と輝くセルゲイ・エイゼンシュテイン(1898~48年)がこの町で生まれたことを~。この人の業績をたたえる映画博物館があったのです。
エイゼンシュテインは、カットを巧みにつなぎ合わせることでドラマ性が高まるモンタージュ理論を確立させた旧ソ連映画の巨匠です。まぁ、いわば「映像の言語」ですね。
いまでは当たり前のことですが、なんでも最初に考え、それを実践に移した人は歴史に残ります。
その理論を、代表作『戦艦ポチョムキン』(25年)で生かし、すさまじい臨場感をかもし出しました。映画をかじったことのある人なら、題名はご存知でしょう。
『ストライキ』(24年)、『十月』(28年)、『アレクサンドル・ネフスキー』(38年)などもよく知られていますね。
激烈と言っていいほどテンポのいいカット割りは、なるほど迫力満点で、グサッと胸に突き刺さります。学生時代、『戦艦ポチョムキン』のクライマックス、「オデッサの階段」のシーンをはじめて観たときのインパクトは忘れられません。大昔の映画なのに……、すごいことです。
エイゼンシュテインは、ソ連の社会体制を賛美する(?)社会主義リアリズムの映画に貢献した人とあって、ぼくはてっきりロシア人とばかり思っていました。だから驚きました。
リガ生まれといっても、ラトヴィア人ではありません。ユダヤ系で、ドイツ人とスゥーデン人の血も入っているそうです。本人は「ソ連人」と意識していたようですが。当時、ラトヴィアはソ連に組み入れられていましたからね。
父親は、リガの街に多くの建造物を残している著名な建築家(ミハイル・エイゼンシュテイン)で、ひじょうに裕福な家庭だったそうです。そこで17歳まで暮らしていたんです。ぼんぼんです。
リガ映画博物館(3)
博物館には、いかにも映画通といった感じの人たちが訪れていました。作品の上映、資料や書物、写真パネルの展示だけで、じつに簡素なものでしたが、「リガが生んだ偉大な映画人」を知ってほしいという市民の気持ちがひしひしと伝わってきました。
偶然、見つけた博物館での大きな収穫。ぼくはすごく得をした気分に浸っていました。

12月 16

バルト3国リポート(11)~

リガ・バリケードM(1)
美しい街並みを誇るラトヴィアの首都リガで、『バリケード博物館』というなんとも物騒な名をもつ博物館に入りました。
博物館といっても、ふつうの建物の2階部分を展示スペースにした、ひじょうに小さなものですが、そこには今日のラトヴィアが誕生した大きな歴史が刻まれていました。
リトアニア、ラトヴィア、エストニアのバルト3国は、大国に支配されてきた哀しい歴史をもっています。
現代史だけをみても、第1次大戦前はロシア帝国の領土で、戦争中はドイツに占領されました。
大戦終結後の1918年~40年はなんとか独立を保ったけれど、40年~41年、ソ連に併合され、第2次大戦中の41年~44年にはナチス・ドイツが進駐、そして44年~91年(リトアニアは90年)にふたたびソ連に支配されました。
このように主にロシア人とドイツ人が、バルト3国の歴史を操ってきたと言っても言い過ぎではないでしょう。
とりわけ、無理やりソ連邦に組み入れられた最近の50年間の印象がことさら強く、バルト3国といえば、すぐソ連というイメージをいだくほどです。
1989年のベルリンの壁崩壊にはじまり、東ヨーロッパの社会主義国家が崩壊した東欧革命を経て、東側の盟主ソ連そのものが瓦解していた時期、バルト3国がつぎつぎに独立を果たしました。
その際、リトアニアとラトヴィアでは、独立をめざす市民とそれを阻むソ連軍とのあいだで銃撃戦が起きました。
1991年1月20日の日曜日、市民が立てこもるリガのラトヴィア内務省ビルにソ連の特務部隊が急襲し、6人の死者と大勢の負傷者を出しました。そのときの様子を映像や資料で克明に解説しているのが『バリケード博物館』です。
リガ・バリケードM(2)
リガ・バリケードM(3)
リトアニアでは、その1週間前の1月13日、首都ヴィリニュスで市民とソ連軍が衝突し、14人の民間人が亡くなっています。
それはまさに悪あがきをするソ連の醜態を世界にさらけ出した瞬間でした。
「ほんの18年前の出来事です。私たちは絶対に忘れません」
受付にいた若い女性がわかりやすい英語で話してくれた言葉が胸に響きました。
ラトヴィアでは、ロシア系住民が30%近くも占めるだけに、独立への道は困難をきわめました。流血が、とてつもなく哀しい。
それにしても、ソ連という国はいったい何だったのか……。バルト3国を滞在中、常にこの疑問符がぼくの頭を駆け巡っていました。

古い記事へ «